meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

無理に書くもんじゃない。

f:id:meta-kimura:20171202113840j:plain

 ブログってのは無理矢理に書くもんじゃないなと思っていても、あんまりにも書いていないと、そろそろどうだい、書いた方がいいんじゃないかい、という気になってくる。書きたいことがないわけでもないし、書きたいなぁ、ってなことを感じてもいるんだけども、どうにも腰が重くなって、重くなって、重くなった挙句にエイヤッの勢いで無理くり何かしらアップしてしまう。そうやって、くちゃくちゃな文章の残骸ができあがる。
 ざらっと読んで、自己嫌悪に陥り、文才のなさを恨み、なんで公開したのかどうかもわからなくなって、この煮え湯が修行なのだと飲み込んで、熱さを忘れようとして、結局、また、パソコンに向かって駄文をつくっている。一体全体、文章の上達とは何なのか、というか、どうしたらスラスラと書けるようになるのか、何度も何度も繰り返されてきた疑問が、未だに鮮度を保ったまま、頭の中を駆けている。

●◯。。。...

 書きたいことがあるときと、ないときがある。ないときに書く文章はとにかく息苦しい。つ、つ、つ、と行き詰まって、リズムが悪い。ちょくちょく手が止まる。最終的には結論がめらめらになる。誰に向かって、何を言っているのかが不鮮明であるし、それ、書かなくていいんでない、って気持ちにもなる。昨日のエントリーなんかがまさにそれで、あげたはいいけど、新鮮な感情も感動も考えもない。ぴちぴちしていない。もっと書きようはあったかもしれないけど、こんな風にしか書けなかったよな、とも思う。

meta-kimura.hatenablog.com
 書きたいことがあんまりなかったのだ。少しできた時間に何か書こうと無理に起動した頭が、明確なものを何もつかめずに、ただただ、読んだ本という実体に頼って、ちぐはぐとした文章を作り出した。そんなもん見せるなよ、と言われそうで、更新したような気にもならず、でも、手元にあっても仕方ないからアップだけして、そっとしておいた。
 書きたいことがあるときは、さすがにそれを目がけて進むから文章は捗る。もともと構成なんかを考える性質ではないから、あっちへ行ったり、こっちへ来たりと迷走はするのだけれど、軸があるとそれなりに読めるような形にはなってくれる。それに、書きながら考えが練られていくことも多いから、出力してるんだか入力してるんだかわからないようなこともよく起こる。こういうときは、自己満足感が高い。ブログとしては、とてもいい感じなのだと思う。
 まれに、書かなきゃならんという使命感を持たされることもあって、そんなときはとってもデトックスである。今、このタイミングで、これを書いてかなければっ、これは読んでもらわねばっ、という勢いに任せてダーッと書けてしまう。最たる例が以下のやつで、書いたあとに、謎の螺旋集団から「この世の真実に気がついてしまったな」とか言われて抹殺されるんじゃないかとか思った。まったくの杞憂だった。

meta-kimura.hatenablog.com

  身体から毒素が抜けていくような、すーっと脱力するような感触は、わりと気持ちがいい。本来なら、こんな書き方をすべきなのだろうなぁ、と思う反面、書きたいことと書くべきことが一致することなんてそんなにないし、むしろ、書きたいこと自体がそんなにたくさんあるわけじゃないんだから、ブログってメディアには馴染まないんじゃないかとかぐちぐち考えてしまうのが、ぼくの悪い癖なんだろう。

●◯。。。...

 書きながら、就職とかのときに言われるWill、Can、Needってのを思い出した。したいこと、やれること、求められていること、の3つの領域が重なったところがとっても良い職業、ってやつ。書きたいこと、(いろんな事情も考慮して)書けること、読みたいと思われてることが重なれば、まぁ、価値は高いんだろう。
 でも、そういうのは嫌だな。自己満足中二病ブログとしては、もっと実験的でいい。実験の残骸なら、甘んじて受け入れよう。人の目を気にし過ぎることなく、それでいてちょっと気にしていたい。

 

m(_ _)m

 

 

伝わる・揺さぶる!文章を書く (PHP新書)

伝わる・揺さぶる!文章を書く (PHP新書)

 

『福沢諭吉家族論集』盛大なる明治の男性バッシング

f:id:meta-kimura:20171203222001j:plain

 今年のBOOK在月という一箱古本市で、なぜか手元に転がりこんできた。キリのいい値段にするために選んだ「もう一冊」である。ざらーっと並んだ古本の中で、まぁ、どれか選ぶといったら、これだろうかというぐらいのテンションで選んだ。読むかどうかは、わからないと思ったし、読めるかどうかもわからんなと思った本だった。
 まぁ、しかし。言うても福沢諭吉先生である。明治の文語文と言えど、読めなくはない。むしろ、わたしにとっては村上春樹よりもずっとか読みやすい。福沢諭吉の文章はリズミカルで美しく、簡単で気持ちがいいのだ。進歩的で啓蒙的で、ゆえに庶民にも読みやすいように書かれている。繰り返される比喩が少々くどいくらいである。
 じりじりと、それでいてぐいぐいと読み進めていき、いつの間にか最後のページに辿り着いていた。ぷっはーっ、と読み切ったときの達成感は、なぜだか妙に高い。読んでるときは息を止めていたような感覚にもなるのは、なんだろう。

●◯。。。...

 家族論集とは書いてあるものの、内容は女性論である。女性の地位、身分、扱われ方がやたらめったらに低く、男性が大変に偉ぶっている。こんな日本では西洋に太刀打ちできぬ。生まれつき男女は平等ならん。女性の地位を向上せしめ、高すぎる男性の権力を低め、もって平らな関係にせん。平らにならして、女性も家を出てさまざまな人と交際すべし。いや、交際と言っても、肉体的なあれやこれやじゃなくって、精神的な交際のことでして、そうやって女性も活動することによってですな、日本という国の力を高めていかねばならんのです、うんぬん。
 というようなわけで、強烈に男性バッシングをしていて、なんだかそれがまた微笑ましいようにも思えてしまう。こういう歴史ものというか、当時の価値観の中で書かれたことを楽しむ系の文章は、今の常識との変化とか、かけ離れ方とか、意外とおんなじだったりする共通点とかがメインディッシュだったりするのだ。福沢諭吉が日本婦人論なんて書いたりしたから、奥さんに前々からねだられていた着物買わなきゃならないハメになったじゃないか、なんて話もあるもので、こういう洒落のセンスは今も昔も変わらんもんなのかもなぁ、なんて眺めているのである。「尻に敷かれた旦那」も絶対にいただろう。

●◯。。。...

 ともあれ、世は明治であった。文明は進むものと考えられていた。福沢諭吉はさらに文明が進んで進んで、極まれば、社会に法律も制度もいらなくなるだろうと考えていた。数千年とか数万年後には、みんながみんな賢くなっていて、高い徳を持っていて、誰もが他者を思いやる。そんな世の中になっているハズである。その理想に向かって世界は進む。その途上が今なのであって、そろそろ男尊女卑は捨てなさい、というようなことだった。
 それから100年以上が過ぎて、わたしは文明が一方通行に進歩するとは思っていない。では、今は何の途上なのだろうか。わたしは、どこに向かおうとしていいのだろうか。

 

m(_ _)m

 

 

福沢諭吉家族論集 (岩波文庫)

福沢諭吉家族論集 (岩波文庫)

 

 

ポスト・トゥルースとかオルタナティブ・ファクトとは健全に付き合いたい。

f:id:meta-kimura:20171107121251j:plain

 事実が揺らいでいるらしい。フェイクニュースなんて言葉も聞こえてきたが、おっと目を引いたのは「ポスト・トゥルース」と「オルタナティブ・ファクト」だった。なんじゃこりゃ。直訳すると「次の真実」と「代替事実」だろうか。真実がひとつでない。事実が多様である。ふむふむ、やっとそこに気付いたかいワトソンくん、とか言いたくなった。なんか意味が違う気がするけど、言いたくなった。
 ちょいとググってみた。どうやら為政者によって都合よく使われている言葉みたいである。至極残念である。どちらも「ポスト真実の政治」と「もう一つの事実」という項目でウィキペディア先生に掲載されているので、興味がある方はそちらを読んでみるといいと思う。あんまり日本では聞かない言葉だけど、ぼくがニュースとかに触れてないから聞いてないだけで結構みんな知ってたりしてて、実はニッポンのジョーシキなのかもしれないけれどけれど、なんかイギリスとかアメリカとかで注目のキーワードらしい。
 概要に「ポスト真実の政治における論証は、政策の詳細は欠けており、断言を繰り返し、事実に基づく意見・反論は無視される。伝統的な議論とは異なっており、事実が歪められ、二次的な重要性を与えられている」なんて書かれるぐらいには混乱しているようで、つまりはプロパガンダみたいなもんだろう、そうなんだろうと一旦飲み込んだ。
 デマとかフェイクニュースとか、そんなに問題になってるのねぇ、対岸の火事だねぇ、ってな感覚である。ちょいとググればニュースが出てくるし、ニュースが出てくればそれに対するコメントにも目がいくもんだし、ニュースの提供元はひとつでもない。昔に比べれば判断の材料はぐんと増えている。東日本大震災のときに流行ったチェーンメールだって、ぼくのところにはひとつも来なかった。ひと呼吸おけばそんなのに騙されるわけがないのだ。リテラシーってのはそこまで落ちたのだろうか。
 ただし、チェーンメールが来なかったことに関しては、ぼくの友達の少なさが影響しているだろうと思われる。それは別の話である。

●◯。。。...

 違うのだ。事実というものを動かざる証拠として1つにまとめてしまうことには抗いたいし、抗ってもいいと思うのだけれども、それは自分に都合のいい事実を選び取るようなことではないのである。『1984年』ぶって、二重思考で事実を読み替えてしまうようなことでもない。Alternativeと言いつつ、Selectiveになっているようで、それは残念だなと思う。
 1つの事実を盲目的に信じることなかれ、というのが現代のスタイルであろう。事実であったとしても、それはAさんには甲と見えて、Bさんには乙と見えているかもしれない。それぞれにとって事実(甲)と事実(乙)であったとするなら、それはどちらも事実である。ただし、Aさんは事実(甲)に、Bさんは事実(乙)に一定の疑問を持たなくてはならない。それらの事実を、客観的な、絶対的なものにしてしまってはいけないのだ。その上で、両者がコミュニケーションするときには、甲乙、互いの事実を交換するようにして、お互いの土俵に首をつっこむようにして話し合えるのが理想なのだ。
 だから、事実の権力が揺らいだことについては、ぼくはちょっと歓迎したい。動かぬ証拠というものの必要性はわかるし、重要性も痛烈に感じるけども、あまり簡単に事実だからと信じてしまうのもよろしくないように思われる。コミュニケーションしようとする双方の力を、外部にある事実が一手に引き受けてしまっている。それぞれの背負うべき苦労を奪っているような気さえする。
 『めぞん一刻』の五代くんを思い出して欲しい。音無響子さんの亡き夫、惣一郎さんの墓の前でこう言うではないか。「初めて会った日から響子さんの中にあなたがいて、そんな響子さんをおれは好きになった。だから、あなたもひっくるめて響子さんをもらいます」と。なんか全然違う気もするけど、事実も感情も、客観も主観も、身体も性格も、ぜんぶまとめてひっくるめるというのがすんばらしいのである。なんか全然違う話のような気もするけど、実は最初っから土台ごと引き受けてるってことに気づかせてくれるのがすんごいのである。

●◯。。。...

 五代くんに比べれば、オルタナティブ・ファクトは大変にセルフィッシュ・ファクトな感じである。そんなことでは、まだまだ音無さんを振り向かせられない。自陣に籠もっても打開はされぬ。あっち側を想定すること。ここを離れてあっちに向かおうとすること。そういう姿勢を大切にしておきたいなと、自戒を込めて思う。

 

 

一九八四年 (ハヤカワepi文庫)

一九八四年 (ハヤカワepi文庫)

 

meta-kimura.hatenablog.com

 

『人間にとって科学とはなにか』科学という宗教

f:id:meta-kimura:20171121164540j:plain

 キリスト教イスラム教、仏教。世界三大宗教に、もうひとつを加えるとしたら、何にするだろうか。人口が多そうだから、ヒンドゥー教か。いや、ここは変化球で考えた方がおもしろい。宗教の意味を広げて捉える。信仰と思えば、民主主義だってひとつの宗教のように見えてくる。となると白人主義なんてのも大きい勢力だろう。合理主義や、ビジネスなんてのも言ってみればひとつの宗教だ。
 と、すれば。4つ目の大宗教には「科学」を加えてみたくなる。論理と言ってもいいかもしれない。1に1を加えれば2になる。売上から費用を引くと利益が残る。酒を飲みたいから、飲む。全くもって当然のことだけれど、その筋道は本当にそうなっているのか。それは正しいのか、どうか。実は自然現象を説明してきたその科学的なロジックに沿うように、わたしたちは信じ込み、そのOSの上で生きているのではないだろうか。

●◯。。。...

 『人間にとって科学とは何か』を読んだ。今年の秋に、近畿大学のビブリオシアターで見つけてから、ずっと気になっていた本だった。科学の考え方を絶対視しないことを、科学相対主義というらしい。科学の大家たる湯川秀樹も、梅棹忠夫も、徹底的な科学相対主義者だったようだ。自分自身がやっていることの土台を積極的に揺るがし、ゆらゆらした中で、それでも突き進んでいった科学者2人の対談本である。わたしの知識が追っつかないところが多々あるものの、それはそれとして横に置いておいて、楽しんで読んでいける本だった。

 考えてみれば、「科学」を英語で言うと「Science」である。サイエンスと言えば、理系のイメージが浮かぶ湯川秀樹は物理学者であるし、梅棹忠夫も出身は理学部である。世に言う「科学的」には理系的な思考、これこれという条件であれば「AならばB」が何度も再現できる、というようなロジカルな印象がある。
 実験して、法則を見つけ出す。論理を組み立てて、法則を予測する。簡単に言ってしまえば、そういうことだ。これはとてもわかりやすい。
 一方で、最近おろそかにされていたりする人文科学というのはわかりにくい。試しにGoogle翻訳で英語にしてみたら「Humanities」と出てきた。サイエンスではないのである。本の中でも、人文はなにをどうやっとるぞ、的な話題が少しだけ出てくる。その疑問に対し、梅棹忠夫が「歴史」と「実証」と応えていたのがおもしろかった。
 歴史は文献である。文献に書いてあることが正しい。新たな文献が出てくると、新しい発見がある。文献に限らなくても、過去の出来事に関しての証拠が大切で、それらの証拠をもとに解釈を組み立てていく。この方法は確かに納得がいくもので、正しい。
 もうひとつの実証は、たぶん社会実験と考えるのがわかりやすいと思われる。何らかの理論や予測があって、それをもとに調査したり、仕掛けたりして本当にその理論や予測が正しいのかを明らかにしていく。これもなるほどと納得できる正しさがある。これらはつまり「科学的」なのだと思う。
 だが、そればかりが人間ではない。文学的なアプローチもあれば、芸術学的なアプローチもあるはずである。人間の認識を、思考を、感情を、心理学や脳科学ばかりに担わせてしまっていいのだろうかという疑問は、僕の中にもずっとあった。では、文学的な方法とは何ぞや。人文知とは何ぞや。この方法が、見えないのである。わからないのである。『私の個人主義』を思い出してしまう。

 私は大学で英文学という専門をやりました。その英文学というものはどんなものかとお尋ねになるかも知れませんが、それを三年専攻した私にも何が何だかまあ夢中だったのです。その頃はジクソンという人が教師でした。私はその先生の前で詩を読ませられたり文章を読ませられたり、作文を作って、冠詞が落ちていると云って叱しかられたり、発音が間違っていると怒られたりしました。試験にはウォーズウォースは何年に生れて何年に死んだとか、シェクスピヤのフォリオは幾通りあるかとか、あるいはスコットの書いた作物を年代順に並ならべてみろとかいう問題ばかり出たのです。年の若いあなた方にもほぼ想像ができるでしょう、はたしてこれが英文学かどうだかという事が。英文学はしばらく措いて第一文学とはどういうものだか、これではとうてい解わかるはずがありません。 (『私の個人主義』 夏目漱石

●◯。。。...

 科学は常に仮説なので、科学は科学を疑う。けれども、科学が科学である限り、そのOS上からは抜け出せないようにも思う。「合理性への信頼とその限界」。この問題をどうやって乗り越えるのかというところには、文系が出しゃばっていっていいのかもしれない。
 東京大学学際情報学府の佐倉統先生が書いたまえがきがとってもいい読書案内になっている。あとがきから読んでいるようなもので、いきなりどっきり結論どーんな感じだけど、お陰で旨みが増した。ごちそうさまでした。

 


m(_ _)m

 

 

J-46 人間にとって科学とはなにか (中公クラシックス)

J-46 人間にとって科学とはなにか (中公クラシックス)

 

 

こんなもんスグできるやろ案件

f:id:meta-kimura:20171107120327j:plain

 お客さんから苦情をいただいたらしい。たまーにあることで、それ自体はどうっていう程のことでもない。流れ弾に被弾したようなもんであって、要は運が悪かった。たまたま電話に出たのがワタシだったのだ。それはみんなもわかっている。わかっているがやるせない。愚痴っぽくて申し訳ない。
 いわゆる、こんなもんスグできるだろう案件であった。このぐらいのこと、スグにできるだろう、ちょっと急げば何とかなるだろう、無理言えばできるんでしょう、そうでしょう。そんな押し込み案件である。こういうのは、結構な頻度で現れる。
 簡単そうに見えても、できないものはできないのである。ここをわからない人が一定割合いるようで困る。写真を撮るなんて、シャッター押すだけでしょー。かんたん、かんたん。ちょちょいとやってきてよー。なんて人に巡り会ったことはないけれど、写真撮影ってそんな複雑なことやっとったんかいな!と驚かれたことならある。デジカメだって現像が必要になることだってあるのだ。
 人が思っている以上に他人の事情はこんがらがっている。メール1通送るのにだって、数日かかることだってあるのである。

●◯。。。...

 この種の案件への対応は、大きく3つの場合に分けられる。どう足掻いても間に合わない場合、無理すれば何とか間に合う場合、余裕で間に合う場合。グラデーションにはなっているが、ざっくり分ければこの3つだ。
 どう足掻いても間に合わない場合の答えはシンプルである。謝って、理解してもらうしかない。なんで謝らなきゃならないのかは不明であるが、そういった文化の中に生きてきたからには仕方がない。申し訳ございませんが、と言うより他ない。厄介なのは2つ目以降の場合である。
 無理すれば何とか間に合う場合は、無下に要求を断ることもできなくて悩む。残業すればできる、他の仕事を横に置いておけばできる、ダブルチェックを省けば、決裁を事後にしてしまえれば。杓子定規にスッパリスパスパ切ってしまえればいいけども、それはそれで角が立つ。うーんと悩んだ末に、仕事だからと引き受けてしまう。
 そんでもって、大体の場合は何とかなってしまう。これがまた悩ましい。無理すればできる、のときは、大抵できる。裏技使ったり、ショートカットしたり、完成度下げたりすることを「できた」と表現していいかどうかは置いておいて、何とかできてしまう。これがよくない。次からはそれが基準にからである。前にできたことは次にもできる。この論理が首を絞めてくる。無理してくれてありがとう、は、次の瞬間には、やってくれて当たり前になる可能性を秘めている。人間はこわい。
 このリスクが、次の場合の対応をためらわせるのである。建前上で無理ですよー、と言ってるだけで、実は余裕で間に合う場合である。余裕で間に合うのであれば、気前よく、ほいさ、できますぜっ旦那、と言えばよい。言えばよいけども、それ、わたしだから対応できるんですぜ、ってときがあるのだ。このやり方をするとスグできる。うまくできる。そんな方法があるとしても、それを後任者ができるとは限らないのである。やり方を引き継ぐことができればよいけども、古今東西、引き継ぎが完璧にうまくいくことなどないし、むしろ引き継ぎなんてないに等しいことの方が多い。
 その結果、ほいさっ、と気前よく返した返事が、ブーメランのようにまわりまわって、将来自分の席に座る人の胸に突き刺さる。実際、前の人はやってくれました!と主張されたことがあった。前の人のサービス精神が、繁忙期のわたしの残業となる。切ない構造であるなと思った。

●◯。。。...

 ゆえに、嘘でもなんでもいいから、作業に余裕を持たせるための演技もするのである。スケジュール見積もるときはちゃんとサバよめよー、と、むかーしむかしに言われたのだ。余裕でも、渋ったり、焦ったりしておけば、相手のサービス当前水準は上がらない。何とか間に合わせたときも、必要以上に汗をかいた雰囲気を装えばいい。
 妙な話なのだ。
 サービスの質を上げるのはよいことなのに、上げないように努力をしているのだから、歪な構造のような気もするのだ。さらに言えば、無茶振りは成長や効率化の機会でもあったりするから、はてさて、どうしたものやらと首を傾げたくなる。
 ただ、質を上げたのであればそれなりの報いがあっていいと考えるならば、無理をきいたときにはチップでも渡して欲しいもんだと思わなくもない。いや、こういう言葉もブーメランするから、控えておいた方がいいのかもしれない。というか、そもそも、無理言ってくるような人がチップとか渡してくれる気がしない。

 

m(_ _)m