meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

誕生日を迎えたから、考えていることなどを書き散らしてみる。

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 誕生日を迎えて、さんじゅうとちょっとちょっとになりました。24歳ぐらいのときには28歳ぐらいと間違われたものですが、いつの間にやら間違われた年齢を飛び越えて、最近では「大学生さん?」とオバチャン方が間違えてくれます。よいお世辞には、えへへと笑えるぐらいには大人になりました。たぶん。
 このところ、ライスワークとライフワークの切り分けが自分の中で進んでいます。仕事は仕事で、活動は活動で、それらが重なる気配もなく、重ねられるという兆しも見えず、そのことが悲しくもあって、それでもまぁいいかと気楽でもあるような感じです。さらには、ライフワークと考えていることの距離も遠くなってきているようで、実践と思考の行ったり来たりもできないまま、行動意欲だけが減退してきています。自分自身が関わっている活動の意義さえも見い出せぬのは、ちょいとどうしたものかと考えものだったりもします。楽しけりゃいいんですけど、どうも芯がないと落ち着かない性分なのでしょう。

●◯。。。...

 アンニュイな気分を抱えつつ、わたしの頭はスタイルや姿勢や感じや文体といったものに向かっています。人は見た目が9割であり、箱が中身であるようなもので、WhatよりもHowに興味が向かいます。やはりわたしには、「戦争反対!」と絶叫しながらプラカードを掲げて国会に押し寄せる群衆が矛盾しているように見えるのです。ときにはそういった勢いが大切なことも理解できる一方で、狂気は狂気を呼び寄せることにもう少し敏感になった方がいいだろうし、市民活動ならば、それこそ大きな物語と同じ作法で戦っちゃいけないのではないかと思うのです。
 行為に対しては必ず姿勢があります。体がある。同じ商品を同じ営業トークで売るにしても、感じのいい人と悪い人が出てしまうように、そこには言葉が立ち入れないような個性とかスタイルがあるのでしょう。写真で言えば、シズル感のようなものです。広告業界用語ながら、なるほど、シズル写真とシズらない写真がやっぱりある。これはいいなぁ、ヨダレが出ちゃうなぁ、身体が反応しちゃうなぁ、おもしろそうだなぁ、というような写真は、構図だとか、ピントだとか、ホワイトバランスだとか、彩度だとか、そういった次元を飛び越えた名人芸みたいなもので成り立っているように思えてならないのです。鉄道写真家の中井精也さんが「後ろにラブホテル建ってちゃダメだよね」と言ってたのをよくおぼえていて、おそらくそういったほぼスピリチュアルに思えるHowが姿勢であって感じに影響するのではないかと、そんなことを考え、ではそこにアクセスするためにはどこから手をつければとぐるぐるさまよっています。

●◯。。。...

 今、ひとつヒントになりそうなのは「みなし」です。『貨幣の思想史』を読んでから、この「みなし」という言葉の周辺でわっさわっさと何かが組み上がりました。

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 そうか、価値というものは、貨幣を価値とみなすことで定義づけられたとも考えられるのか、などという、そんなのお金は信用だって知ったときに気づいとけよ的な、大変に今さら過ぎることに気付いて、そこから、世界は自然層と社会層の2階建て構造で、その2層を「みなし」とか「見立て」が結んでいるのではないか、とゆー夢想にまで膨れ上がりました。インターネットが世に広まる遥か以前から、世界はヴァーチャルな構造で出来上がっていたのかもしれない。と、ぐるぐる巡っていたら『擬 MODOKI: 「世」あるいは別様の可能性』が出たと聞いて、これは読まなければリストに追加されました。

擬 MODOKI: 「世」あるいは別様の可能性

擬 MODOKI: 「世」あるいは別様の可能性

 

 形式よりも中身を、肩書きよりも能力を、という流れには少し待ったをかけなければならないのかもしれません。肩書きも実力のうちに入るだろうし、肩書きが実力の結構な割合を占めるということもあるのでしょう。社長は人間ですけども、社長とみなし、みなされることで、コトが動いていきます。このことを、わたしはもっと重く認めなければならないようです。

●◯。。。...

 たぶん、こんなことをぐっちゃぐっちゃと書き散らしながらわたしが対抗しようとしているのは、今風原理主義とセカイワカレ現象の2つです。
 今風原理主義ってのは、ナマナマした話です。社会を構成するみなしの浮遊感に耐えきれないからか、本物こそが至高、すっぴんが一番キレイで、無農薬が全く美味しいというナマナマ主義がちらほらと目につきます。みなしの否定です。擬態を剥ごうとしているように見える。これ系の話にはある程度まで共感するものの、どうもわたしの肌には合わないようで、どこかにナマナマの悪魔みたいなものが潜んでいる気がしてならないのです。社会的な生き物である限り、みなしからは逃れられないものとした方が健全ではないかと、漠然と考えています。
 もうひとつは、言葉の通じない相手が出てきているということです。合理ってのは、これもあんまり好きじゃないんですけども、それでも「理」はわかるし共有していないとやっていけないところがあります。ところが、どうも話の筋が通らない人やそもそも全く違った「理」のセカイに生きている人がいるようで、それこそ信じられない事例が身のまわりに起きることもあるし、そんな話を聞き、目にすることもちょくちょくあります。それらがモンスターやクレーマーやクラッシャー上司や困ったちゃんになって、日常のストレス度合いの大半を担っているのではないか。個人的に豆腐メンタルなこともあって、これが大問題なのです。良識ある人を増やすというか、セカイを同じくするなり、何らかの手段でもって別世界へと離れてしまわないように、別世界との交渉ができるようにしなければなりません。厳密に考えればどこまでいっても個々人は別世界の住人なんですけどね。

 てなことで、誕生日を迎えました。どういうことになるのであれ、わたしはわたしの役目を勝手に担っていくのだろうなと、他人事みたいに思っています。

 

m(_ _)m

 

 

 

『中国山地 過疎50年』。。。

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 最近ぐっと寒くなってしまって、ヒートテックのインナーを着るかどうか、まだはやいか、まだはやいか、踏み切るか、いやいやまだまだ、などと悩み込む季節になってきた。半袖はすっかりお役御免である。一気に衣替えするのも億劫で、物置の中から長袖を1枚ずつひっぱり出す。今度の土日は、次の土日には、と、進む季節に抗うように衣替えを先延ばしにしてしまう。しかし、無情にも季節は進む。
 秋の先には冬が待っている。冬支度をせねばならないのだ。今年のテーマは断熱である。週末、ひとまずはお風呂の大きな窓を二重窓にすべく、ポリカプラダンとレールを買ってきた。ついでに金工用のノコギリも買って、キコキコとレールを切った。プラスチック製の長いレールはよくしなる。なかなか真っ直ぐには切らせてくれない。切って、窓のサイズに合わせてを繰り返していたらスグに日が暮れてしまった。夕方の日産「あ、安部礼司」がはじまったと思ったら終わっていた。それなりな肉体労働と、集中力である。晩ごはんをつくる気力はなかった。

 住むということがこれほどしんどく、消耗するものだとは思っていなかった。どうやら今までの住環境はかなりの部分がレディメイドだったようだ。自分のライフスタイルに合った商品がそこあって、あとはそれを取ればよい。簡単ではあったし、自分なりにカスタマイズはしてきたけども、これほどのDIYをするようになるとは思ってなかった。もともと肉体派でもなし。そこまでの興味も湧かなかった。
 だが今は借家に住む身であり、狭いながらに庭もある。できることが増えた。増えた分だけ、手間も増える。もともとこちらのライフスタイルに合っているわけでもない。合わないものだから、合わせる努力をしなくてはならぬ。オートフォーカスでは味わえない、マニュアルのムズカタノシサがそこにある。
 ありきたりだけども、地方に住むというのは凡そこういうことではないかとも思う。できることも増えるし、しなくてはならないことも増える。活動量は大きくなる。だから僕は、若い人ほど地方に行けばいいと考えていて、逆に高齢者は都会に住めばよいとも考えている。暴論だけど、そういう考え方である。

●◯。。。...

 過疎という言葉ができて50年経つらしい。ということは、50年前から過疎で、今もやっぱり過疎で、これからもその状況は続く見込みだということで、なんだかとっても衝撃的なタイトルだった。中国新聞の特集記事がまとまった本は「那須集落 6人になった」という、やっぱり衝撃的なルポではじまって、徐々に未来を見据えていく。
 田舎盛り上げようぜ、地域おこしやってやるぜ的なマッスルに一歩か二歩か三歩ぐらいは引いてしまうわたしにとっては、新聞風のバランス感覚がちょうどよかった。小田切徳美氏のインタビューの直後に、増田寛也氏のインタビューをのっけるところにも気概を感じた。いい本だなと思った。

●◯。。。...

 帰り道、秋の夜長を歩きながら、こりゃあ「衰退の美学」が必要なんじゃないかとか思った。「成長の快楽」は麻酔なのかもしれない。人が増えること、盛り上がること、右肩上がりなこと、稼げること。それらはそれで大切なことだけども、美意識をもった衰退や消滅や撤退にも、頭が下がる。それもまた、英雄であるし、感動を生む。
 そういう「衰退の美学」みたいなものは、多分、かなりの部分でナルシズムを含んでいて、それでいいんだろうなと思った。その場所に住んでいる人の幸せを、他所からの流れや人や情報が邪魔してしまわないといいなとも思った。

 過疎地を担ってきた昭和一桁世代が80歳以上になっているらしい。さすがに地域のあれやこれやを支えられなくなっているという話である。50年経った現場の断片集。感じることも、考えることも多い。

 

m(_ _)m

 

 

中国山地 過疎50年

中国山地 過疎50年

 

 

怠惰に埋もれるわたしとMADARAのお土産な話

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 9月の3連休に有給1日くっつけて名古屋に行ってきました。途中、大阪に寄ってビブリオシアターを友達と一緒に眺め、三重で家族連れに揉まれながらヤオ・テンセンを見て、友達の家で台風をやり過ごしつつ『月刊少女野崎くん』を読みまくり、NPOのための情報発信講座MADARAを撮って、最終日は大学時代の友達と昼飯食いにいくという、なんだか詰まってんだか手持ち無沙汰なんだかわからない内容でした。書いてみると結構予定があるように見えるんですが、実際には時間を持て余し気味な感じで、意外と遊ぶ相手がいないもんだなぁ、とか、台風が来なかったら夜も誰かに会えたかなぁ、会えなかったかなぁ、などと妙にぐるぐるしてしまっておりました。
 結局、会ったところで話が盛り上がるわけでもないんですけどね。
 戻ってきたら戻ってきたで、掃除や洗濯や買い出しをして、提出書類を整えて、とりあえずで10月のイベントのホームページを改修したりしてたら、MADARAの御礼もできないままに日々が流れて、うーん、いつからこんな筆不精になってしまったんだろうと自己嫌悪に陥ったりして悩む間に、椎名誠の『哀愁の街に霧が降るのだ』上・中・下巻が読み終わり、NHKラジオでやってた土屋賢二のサタデーエッセイを聞いて、そうか、『論より譲歩』にぼくが考えていたことのヒントがあるんじゃないかと思ってしまったりしていました。
 うん、『論より譲歩』はどこかで読もう。

●◯。。。...

 さてさて、MADARAに来ていただいたみなさま、企画・運営なみなさま、どうもありがとうございました。このブログで告知もしたから、ちょこっとイベントアフターなことも書こうと思います。と言っても、あんまり書けることもないですね。講座の内容は講座の中にあるもので、外に引っ張り出すもんじゃありませぬ。
 書きたいことと言えば、講座に参加されたみなさまには「用語」を持って帰ってもらいたいということです。
 特徴的な言葉がいくつかありましたが、個人的にはあれがお土産になっていると思ってますので、ぜひ頭の中で使ってみてください。そんでもって、使用時には「この使い方でいいのかな?」「意味はあってたかな?」と思いながら使っていただくのがいいと思います。意味を固めないで、ちょっとフワフワした状態で使っていってくぐらいが丁度いい按配です。キチンとした理解をしないで、でも、それ自身に宿る意味があると、ある種の思い込みや勘違いをしてみてください。
 そうすると発見やひっかかりが出てくるハズです。新しい言語を習得するようなもので、英語的世界から見れば、日常はちょっと違った表現になるのと同じです。見方に動きが出ます。その動きを楽しんでみてください。見えなかった情報が見えてくることもあります。使ってみたけど肌に合わなくって、使えないやーいと投げ出したくなる自分に気づくこともあります。提示されたのは既知のようでいて未知の言葉です。存分に練ったり、立ち向かったりしていただくのをオススメします。
 教室で捏ねたい方は、どうぞ門を叩いてみてくださいませ。

●◯。。。...

 熱気や真剣さや、考えたという経験そのものも、とても大切な価値なのですが、それらは一方で日常に持ち込みにくいものであったりもします。だから、ふとしたときに、ちょいと頭に浮かんだ「用語」を使ってやってください。

 ここではとりあえずこれだけ。参加された方へのヒントになれば、幸いです。

 

m(_ _)m


告知のときに書いたのはコチラ ↓↓↓

meta-kimura.hatenablog.com

 

 

 

知の編集術 (講談社現代新書)

知の編集術 (講談社現代新書)

 

 

 

そういえば、地味に就職活動しています。

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 キャラメル食べてたら、思いっきりむせました。咳が強すぎて、腹筋に激痛が走り、一時動けない状態になっていました。はい。就職活動をしております。
 なんたって育休代行中の身ですので、またもや世の荒波に揉まれ揉まれてもみくちゃにされなければならないとのことなのです。そんなに揉んでも何にも出ませんよと、誰かに伝えてあげたい。
 今の立場の任期は来年の4月末までなので、ゆっくりのっそり動いております。今のとこに残れるかどうかはわかりませぬ、とのことなので、まぁ、生存戦略としては職を探す必要があるわけです。しかし、この前もこっそりのっそり面接を受けてみたりしたのですけども、あまりの自分のできなさに唖然といたしました。つまりはですね、自分のことを全く話せないわけです。自分が大変に苦手なんです。
 やってきたこと、見てきたこと、会ってきた人、考えたこと、そういった類のことは、たどたどたどたどしながらですが、喋れます。過去の経験だし、社会がどうとか、会社がどうとか、そんな話は事実と考察ですゆえ。ただ、一転して刃が自分に向かうと、どうにも切り込めない。「自分はどんな人だと思いますか?」なんて聞かれた瞬間、そんなこと考えたこともなかったわ!的な表情を返して、ちぐはぐトンデモ話が口から漏れてしまう。自己PRなんて最低です。最も低いと書いて、最低です。たぶん、この場合、評価が低いんだと思います(他人事)。
 妙に生真面目というか、権力に対抗できる気概もないので、ツッケンドンにドカンとそんなものねーやい、しらねーやーい、やーいやいやい、と言うこともできないから厄介です。不器用っちゅーか、面倒くさいんですなぁ、わたくし。

●◯。。。...

 要は就活が苦手なんだと思います。というより、自分を求められるのが何だか好きになれないのです。目の前に課題とか状況があれば、これはこうしようとか、あれはどうしようとか、それなりな頭がそれなりに働きます。
 あと、プレゼンテーションはできる。そういえば、以前はプレゼンしまくってたし、自己紹介的なこともしてましたね。うーん、ってことは、あの面接の、でっかい部屋に椅子ちょこんと感&前からじっと値踏みされる感の問題なのかもしれません。てか、そんな気がしてきた。そんな気がしてきた。

 そんな気がしてきたら、これから書こうと思ってたことにつながらないことが判明してきたので、ここらへんで書き終えようと思います。たぶん、ぼくの中に面接的が刷り込まれて条件反射的に反応しちゃってるんだろうから、ちとそれを脱ぎ捨てんといけんってことだろうな。心構えしていこう。
 しっかし、どえらい、とっ散らかしの書き散らしになってしまった。申し訳ないけど、ま、こんなんでも書いたもんだからあげておきます。m(_ _)m

 そんなことでのっそりのそのそ就職活動していきます。おやすみなさい。

 

m(_ _)m

 

 

 

さあ、才能(じぶん)に目覚めよう 新版 ストレングス・ファインダー2.0
 

 

 

無理が通れば道理が引っ込むならば、無理を通せば無敵なのか。

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 とても悩ましい。これに関しては、ずーっと前から考え込んでいて、答えが出ない。答えが出ないだけならまだいい。本当に、生存戦略としての筋肉の重要性に、わたし自身が敗北しつつあるから怖いのだ。
 世の中、オラオラした方が勝つ。これがどうにも尤もらしい。苦情を言えば、お土産がついてくる。厄介な人間だと思われれば思われるほど、主張は通りやすい。「面倒くさい相手だなぁ。何か言われる前にちゃっちゃと済ませてしまえ」。これが困ったちゃん対応をするときの実感である。自然と、いい人、こちらの事情を慮ってくれる人、親しい相手からの依頼は後回しになる。結果、早くしろ!と無茶な要求をしてくる輩が思い通りの結果を手にしてしまう。
 わたしはこの構造が、大変に気に入らない。

●◯。。。...

 いい人間が上に行く。そんな世の中であって欲しいと願う。だけども、どんな人が「よい」のかはわからない。頭がよいからといって、仕事ができるとは限らない。性格がよくても、同じである。総合的に「よい」人を判断する術はない。たぶん、ない。
 だから、ビジネスという方法が選ばれているのではないかと、思っている。渋沢栄一が日本の経済を構想したときには、なるべく「よい」人が上に行くようにと考えていたハズである。よく知らないけど、そうだと思いたい。人といい関係を築ける人、信頼される人、好意をもたれる人、運がいい人などなどが成果をあげる。基準がないからこそ、市場の中でのやり取りで、徐々にそういった人が選ばれていく。実るほど、頭を垂れる稲穂かな。VIPな人ほど、腰が低くて感じがいいというのは、よく聞く話であり、本当にそうだなと感じることもよくある。

 だけども、最近はちょっと事情が違ってきているように感じてしまう。言葉が激しく、暴力的になってきているのと同様に、どうも筋肉の力が増してきている。大きい話で言えば、軍事がその存在感を高めている。北の方からは、どうにも話が通じないような脅威が迫ってきている。オラオラ押せば、自分の利益が増えると信じているようで、実際に望み通りになっている雰囲気もあって、気味が悪い。着々と筋肉が増加しているらしい。
 対する西側も筋肉で対抗するような話が聞こえてくる。これに対して、わたしは真っ向から異を唱えることができないでいる。致し方なし。そんな声が、どこからともなくあがっているように、思う。果たして、仕方なし、しょうがない、やむを得ない、という態度がよいものなのかどうか、わからない。わかっていることと言えば、やはり最後にはパワーに頼るしかないのか、というわたしの諦観である。
 死人に口なし。ペンは剣に負ける。負けたくはない。

●◯。。。...

 視点を戻して、周囲を見渡してみても、なんだか憎まれっ子が世に憚っているようなのだ。無茶苦茶を言うモンスターはペアレンツに限らない。それぞれが「すみませんが」と前置きしてコミュニケーションすればいいものを、なぜか要求を突きつける。さもサービスを受けるのが当然といった態度であったりする。そういう人は、目立つ。目立って、成果を誇り、認められ、増長する。
 イノベーターは、無理を通す人や無茶を言う人ではないと思いたい。思いたいが、この2者は近い存在なのかもしれなくて、困る。既成概念を壊し、囚われず、新しい分野を開拓するにはパワーも必要だろう。攻撃力だって、あった方がいい。しかし、やっぱりモンスターであって欲しくはない。憎まれっ子ではなくて、好かれっ子であって欲しい。

 そう、切に願う。
 一体、イノベーターとモンスターの違いは何なのだろうか。

●◯。。。...

 戦略として、モンスターになる方が自己の利益になると判断できる状況があり、合理的に、モンスター化する人が多くなればなるほど、わたしのような引っ込み思案は生きにくくなるのだろう。ただ、それはなんかダークサイドに落ちていくようなことだと思う。フォースには、ノブレス・オブリージュとか、騎士道精神とか、武士道魂とかが伴うべきなのだ。結局のところ、それは人間の良心や良識ではなかろうか。

 ところで。お盆休みにそんな話を兄にしてみたら「心理学は『他人は変えられない、変わるのは自分』が前提やからなぁ」と言われてしまった。なるほど、たしかに。ん? しかし、カウンセラーの仕事とはいったい・・・うごごご。

 

m(_ _)m

 

 

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