meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

1年ぶりの松江帰省。

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 島根県松江市に来ている。なんか、犯人が犯行現場に帰ってきたような気持ちだったり、そうでもなかったりする。1年前まで、松江市民だった。3年間ほど松江に住んでいた。岐阜に引っ越したのが、去年の5月29日のことだった。
 ほんとにまるっと1年ぶりだ。1年間、松江には帰ってなかった。引っ越してから、初めての里帰りである。岐阜から半日かけて、新幹線とバスを乗り継ぐ。さすがに山陰。けっこう遠い。

●◯。。。...

 松江駅に着くまでは、なんだか全てが懐かしっくって、目がうるうるしてしまうんじゃないか、なんて思っていたのだが、まぁ、そうでもなかった。身体がスグに馴染んでしまう。意外と忘れていたことも、その世界に戻ってみれば、思い出す。懐かしさよりも、いつも通り感の方がまだ強い。
 思い出すというより、まるで覚えていたかのような感覚になった。記憶ってのは、全部が全部頭に入っているもんじゃないらしい。足は自然と動くし、その場所に行けば人の名前も湧いてくる。もちろん、地名とか、思い出せなくなってしまったものもあるけれど。
 とりあえずの1日目は、残っていた銀行口座の処理と、前職でお世話になった人たちへの挨拶で過ぎていった。なんだかんだで各所に挨拶していたら、時間はスグに過ぎてしまった。仕事中にお邪魔したのに、あたたかく迎えてもらえたのがすごく嬉しかった。いろいろと変わったところもあって、大変そうなところもあったけど、それでも、笑って世間話ができた。それが何よりだなと思った。

●◯。。。...

 改めて来てみると、とんでもなく恵まれた環境にいたことがわかる。自然が多くて、山が見えて。歴史街で、観光地でもある。お堀もあるし、湖もある。綺麗な水じゃないけども、その景色は清々しく、美しい。
 通勤環境なんて、今とは比べようもない。最初のアパートは職場から徒歩5分もかかるかどうかのところで、ちっさい路地を歩いて通っていた。次の借家は街中だったけど、それでもバスで1本。30分もかからない。最後の1年はいわゆる遅番出勤で固定されていたから、8時40分に家を出たらよかった。朝の7時から満員電車に揺られていることを考えると、いや、比較にならない。
 職場の緑も多かった。通っていたときには見えなかったことが、やっぱり、離れてみると見えてしまうようだ。
 こういうのは、だいたいが「隣の芝生は青い」的なものなのだと、わかっている。当然、前職のときには前職のときなりの閉塞感があった。気持ち悪さも感じていた。動きのとりづらさも、先の見えなさもあった。だから、こっちのがよかったよなぁ、なんて、単純に言えるものではないし、言うつもりもない。ただ、自分にとっての豊かさは何かと考えたときに、ぼくの場合は、自然や、こういう場所の気持ちよさが、大切なんだなと、しみじみ感じる。

●◯。。。...

 今は、様々なバランスの中で、何とか地方っぽいところに踏みとどまっている。その状況から、また、もう一回、自分がいいなと思う環境に近づけていけるようにしていきたい。

 

m(_ _)m

 

 

生きるように働く

生きるように働く

 

 

もう終身雇用なんて守らなくていいと思っている

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 トヨタの社長が終身雇用難しい発言をしたとかいうニュースが聞こえてきた。もう時代も令和だし、そろそろそうなるだろうなぁ、なんて転職まみれのぼくは呑気に受け取った。そりゃあ、そんな雰囲気にもなってくるだろう。日本型経営を続ける企業があってもいいが、みんながみんな同じ方針になる必要もない。トヨタなんて大変なグローバル企業なんだし、日本をリーディングしまくってきたんだし、それなりの時代対応があってもいい。右にならえとトヨタ便乗しちゃう同調圧力に結構ヨワヨワな企業群が出てくるのが、危険ではあるけども、それもまた、新しいフェーズに移行していくための試練ってもんかな、って思う。戦国時代が下剋上のチャンスだったように、大変な時代がくることが一概に悪いってこともないのだ。
 ってなことを考えていたら、どうやらトヨタ社長の発言はマスコミが捻じ曲げたものらしいってなニュースも流れてきた。それらを見るに、難しくなってきているから雇用を守っていくために税の優遇とかを考えてもらえんかね、という意図の発言だったらしい。一方で、転職サイトなんかを眺めるとトヨタの求人は多い。もちろんハードルは高い。けども、転職者の活用をすすめていこう的な雰囲気もあるらしい。噂程度のものだけど、それもそれで納得できる。新卒からの勤め上げコースって、そこまで当たり前のものでもなかったし、これからもっと人の動きは活発になってくるだろう。

●◯。。。...

 トヨタ社長の前に、経団連の会長が終身雇用を守れないという発言をしていたらしい。こういうのを後追いで知るあたりで、ぼくの情勢への疎さがよくわかる。いつもラジオのニュースを聞き流しているだけなのは、サラリーマンとしてどうなのか。
 それはともかく。
 やっぱりどうやら、状況は変化しているらしい。経団連の会長が言い出したのだから、それなりの影響力はあるだろう。いろんな会社の経営者が、うんうんそうだよな、終身雇用きっついよな、そろそろ守れないよな、どうにかせんとな、となっている可能性はある。いいことだと思う。70歳まで雇ってくれ的な要望が出てきているってなニュースもある中で、ずっと雇用し続けるのは大変だろう。
 思いっきり脱線になるけども、70歳まで雇い続けるってのはとんでもない話である。古い価値観は残ってしまうし、新しい考え方には馴染まなくて扱いづらい人材が居続けるってことだ。もちろん、個別の事情によるけども、全体的にはその傾向になりそうだという予測はできる。では、有能な人だけに残ってもらうようにすればいいか。それも難しいだろう。年上の人の能力を評価できる人がどれほどいるかを考えるべきだ。往々にして、潔く身をひける人の方が賢明であるということも、頭に入れておかなければならない。これらを考慮に入れた上での70歳まで雇用施策というならば、それはそこまで逼迫した状況があることを示す。が、まぁ、これは票数確保の政治的な意味合いの方が強いようにも思える。脱線終わり。

●◯。。。...

 人件費ってのは基本的には上がり続ける。なっかなか下げられない。年収が下がったり、降格されたり、解雇になったりが、今より簡単にできるようにならないと、人件費で柔軟に対応するなんてことはできない。そこを何とか柔軟にしようとしての、非正規雇用であったが、これは研修や経験の不足を招いてロースキル&ハイエイジな人材を量産するに至ってしまった。
 安定的地位を確保していた正社員はどうかというと、こちらも意外とロースキルなまま役職だけ上がってしまった。とんでもなく論理的思考ができない人がなぜか上にいらっしゃる、ってなことはよくあることである。人間力が高いとか、カリスマ性があるとか、そういうわけでもなかったりするから、大変厄介である。
 おそらく彼らは有能な後輩であったのだろう。ムラ社会ニッポンの中で、先輩に可愛がられるスキルが高まった方々といえる。上位層の好みによって下位層から引っ張り上げられるシステムを採用してきたムラ社会ニッポンにおいて、能力とは「誰々さんと仲がいい」であった。ムラの中にいて、ムラの有力者と仲がよければ、ムラの意見はよくまとめられる。これが調整力である。最も重視される力だ。
 決して、文章が読める力であったり、複雑な数式を理解できる力であったり、段取りを組み立てる力とか、すばやく事務処理を遂行できる力、提案をわかりやすく説明できる力、ではない。成果を出す、出さないに関わらない。仲のよさ、である。それが本質だ。いくら人工知能に詳しくても、仲がよくなければ企画は通らない。仲がよくなるために、その他のすべての力が使用される。その構造は、けっこう切ない。
 そして、その構造にフィットしていたのが、終身雇用である。

●◯。。。...

 ムラにおいては、ムラに長く居続けた者の発言力が強くなる。ゆえに、長く居続けた者の能力は高く、成果も上げやすくなる。これが年功序列賃金と終身雇用の源泉である。つまり、ムラであれば、終身雇用には経営上の妥当性がある。
 これが、先の発言では「守れない」と表現されていたことに気づくべきだろう。終身雇用が経営上の攻め手とは見なされていない。守るべきものとなっている。ここの感覚が既におかしい。我々は経営環境が変化していることを既に知っているということだ。トヨタ社長の発言にも、この意味合いはあらわれている。経営的に攻めの施策であれば「難しくなる」ことはない。
 モデル的には「集合と定着」から「集合と離散」に変わってきている。ムラが開かれつつある、というのはぼくの希望的(要望的)観測ではあるが、グローバル企業であれば、村民解散の雰囲気もそれなりにあるだろう。仲のよさより人あたりのよさの方が大切になる。長い付き合いよりも集まったときに持っていける能力の方に重きが置かれる。集合と離散の繰り返しがゆるいコミュニティを生み出すが、コミュニティは生活の保障をするほどのものではない。依存ができない分、意外と厳しい。
 こういった環境変化が否応なく進んでいると、考えた方がいい。その上で、企業ごとの戦略を考える。ぼくは、それらをわかった上で終身雇用や年功序列を選択する企業は凄いと思うし、そのロジックと信念を尊敬する。理念がどこに向かっているかを、ちゃんと認識すれば、その戦略は理にもかなうものだ。
 逆に、もう守れないんだよね、と言ってるのであれば、それは怪しむべきだろう。単なるエクスキューズか、構造を見誤っているかのどちらかだろう。本気で守ろうとするならば、それを攻め手として使う。

●◯。。。...

 勢いに乗って、愚痴みたいなことをつらつらと書いてしまった。あまりのまとまらなさに反省する。ストレスが溜まってんなぁ、流してもらえたらありがたい。
 だいたい、終身雇用なんて幻だったのである。世の中の労働者の、どのくらいの人たちが1つの企業に勤め上げられたのだろうか。だれかきちんと調査してみて欲しい。70年代であっても、4割いたかどうかぐらいじゃないだろうか。この国は、一部の人達をメインストリームとして取り上げ過ぎる傾向にある。
 終身雇用を契約として入社したわけでもないだろう。なんとなく、そんな風習があるに過ぎなくて、それはひとつのあり方でしかない。自分を見極め、人を見極めて、それぞれに生存戦略を練っていけばいい。
 戦国化しつつある社会で全体最適しようとすると、歪みがたくさん生まれてしまう。手元の部分最適の積み重ねが良策だろうと、思う。タフな時代だなぁ。

 

m(_ _)m

 

 

ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現

ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現

 

 

『ヒトニツイテ』五味太郎 ― ヒトッテヤツハ・・・

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 五味太郎の本を買った。ぼくの中で五味太郎と言えば『ことわざ絵本』であって、小学校低学年とかそれぐらいの時期に、何度も何度も読み返したものであった。すっごい好きというわけではなかった。ただ、なんというか、そのテンションがクセになる。時間があったり、暇だなぁ、ってなときに、畳の上にゴロンっと寝転がって、その辺にほかってあった本を手にとってパラパラと読む。そんぐらいのゆるやかさで、『ことわざ絵本』に親しんでいた。
 特に好きな作家になったりだとか、そんなこともなかった。記憶の中でなんとなーくな存在感を保ち続ける作家のひとりに五味太郎があった。

●◯。。。...

 いつだったか、一箱古本市の店番を頼まれたときに、箱の中に五味太郎の絵本があった。シュールだった。ゆるやかなテンションで、なんだか意味のないようなあるような、ダジャレのようなそうでないような雰囲気で、これは売れるだろうなぁ、と思える本だった。高値をつけておいたら、案の定、売れた。ちょっと自分で買っといてもよかったかもしれんと感じるぐらいには、シュールな本だった。
 以来、たまに見かける名前になってしまい、友達の子供がちょっと大きくなってきたらプレゼントに最適だなぁ、なんて考えるようにもなった。五味太郎はセンスがあってオモシロな作家という認識を持つようになっていた。そこに来ての、『ヒトニツイテ』である。右ストレート、いや、ボディブローか。

●◯。。。...

 どこかで見かけた五味太郎と誰だったかの対談記事に出てきたのが『ヒトニツイテ』だ。対談相手が絶賛していて、妙に気になっていた。記事自体は、五味太郎のクセが強過ぎて、若干幻滅気味になって、序盤だけで読むのをやめた。自由人ってのの扱いは難しい。
 残ったのは『ヒトニツイテ』の印象だけで、読みたいなぁ、と焦がれること3ヶ月程度。少し読書に明け暮れるフェーズがやってきたこともあって、今のうちにと併せてポチッと買ってしまった。届いたのが昨日だ。絵本だから、スグ読めてしまう。そこがまた、恐ろしい。

●◯。。。...

 内容に触れることは控えておく。ただただシンプルに、衝撃を受けたのは事実であった。ムチャクチャ味わい深い。絵も含めて。考えさせられるのだけれども、分析とか、論理とかが入り込んでいくのも興ざめな気がして、いわゆる、言葉にできない系の触り心地である。読んだ人とじっくり語ってみるのもいいかもしれないけれど、語らずに独りで反芻したい気持ちにもさせられる。ああ、と声が出そうになった。
 五味太郎に限らず、絵本ってのは無邪気に本質を突いてくる。シガラミがなくて自由だ。言葉はやさしいくせに研ぎ澄まされている。詩と同じである。子供と同じ真っ白さで、子供と同じ残酷さも持つ。
 詩をやりなさい、と孔子は言ったそうである。『身体感覚で『論語』を読みなおす。』に書いてあった(←最近読んだ本の知識をひけらかす)。詩ってのは、言葉数を少なくして、本質に一気に切り込むものだから、根源を突く感性を磨くにはもってこいなんだそうな。そんなものなのかもしれない。

 さて、ヒトニツイテ。人生経験を積んだ大人の方がハマる本。ヒトハ、ヒトッテノハ、ヒトッテヤツハ……。

 

m(_ _)m

 

ヒト ニ ツイテ (シリーズ子どもたちへ)

ヒト ニ ツイテ (シリーズ子どもたちへ)

 
五味太郎のことわざえほんシリーズ(全2巻セット)
 
身体感覚で『論語』を読みなおす。: ―古代中国の文字から― (新潮文庫)

身体感覚で『論語』を読みなおす。: ―古代中国の文字から― (新潮文庫)

 

 

ゴールデンウィーク10連休の効用。

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 10連休も残すところあと2日になった。予定のない連休を過ごしてみて思うことは、こんだけ長い休みがあるっていいな、ってことだ。いや、そのままの意味で受け取ってもらうと困る。こんだけ長いと、それなりに日常のリズムができてくる。それがとてもいいのだなぁ、ということだ。

●◯。。。...

 海外旅行だとか国内長期旅だとかの大きな予定を入れない限り、10日もあれば中だるみが生まれる。ずーっと休みだウェーイなテンションで予定を詰め込むこともできない。かといって、ひったすら自堕落に過ごすわけにもいかないだろう。ぼーっとしてたって1日は過ごせるけども、3日ぼーっと過ごせる人はそうそういない。
 食事をつくる。洗濯をする。掃除をして、ゴミを出す。家事の合間に少し休んでお茶を飲む。そうやって、なんとなくの時間割を自分なりに組み立てていかないと歯が立たなくなってくる。10連休は意外と手強い。
 これがまた、ゴールデンウィークだというところもいい。年末年始の9連休とかは今までにもあった。しかしながら、年末年始やお盆は帰省しなければならないという制約がついたするのが日本人である。なんとなく、同窓会なんかの予定も入る。決まりごとのように開催される。それはそれで大変に素晴らしい年中行事なのだけれども、その、年間リズムマイルストーンが入ってくるので、自由まっさら長期休暇とはならないのだ。
 それに対して、ゴールデンウィークにはしがらみはない。さぁ、何をするか。そこから自分たちで考えていかなければならない。その状況をつくり出せたことが、今回の10連休一番の功績だと思いたい。

●◯。。。...

 このゴールデンウィークは、日本人を10日連続で休ませたらどういう反応が起こるのかを観察するための社会実験だったのではないか。ってな話がわが家で出た。冗談交じりではあるけども、その通りだったのではないかとも思ってしまう。バカンスに向けたトレーニングだと考えてみるのもおもしろい。
 報道を聞いていると、10連休を歓迎していなかった人、楽しめていない人、批判的な人もかなりの数いるという。その中に、予定を自分で決めなければならないストレスが一定程度は含まれているような気もしてしまう。裏を返せば、普段の生活の方が無思考で楽なのだろう。他者比較、人並みでありたいという願望も加わっている。休みだから、充実して過ごしたい、外に出かけたい、SNS映えする過ごし方をしたい。背負う必要のない要求がのしかかってくる。

●◯。。。...

 休みなのだから、理想の暮らし方をすればいい。それぞれがそれぞれの事情にあわせて、思うように時間を使えばいい。仕事をしたければ仕事してもいいし、勉強したければ勉強、遊びたければ遊ぶ。単純に考えて、それでいいのである。
 8日間休んできて、昔の感覚を取り戻しつつある。転職の合間の、ニートな期間の感覚にけっこう近いところまで来れるのだな、というのが正直な感想である。毎日スーツを着なくていい。朝は7時前に起きて、朝食をつくる。適度に身体を動かし、勉強もして、午後には窓辺で本を読む。
 遊び過ぎの気配はあるけども、それであっても、通勤する日常に比べれば、大変に有意義で、進んでいる感覚がある。どういう暮らし方がしたかったのか、どういう生き方がしたかったのか。改めて、見直すことができたように思う。
 10連休で、休みの日常ができた。これが比較対象になって働く日常を照らし出す。果たして、どちらが「正常」なのだろうか。

●◯。。。...

 きっと、生きると働くはもっと重なっていく。重なれば、連休もなくなるし、連勤もなくなっていく。わたしの場合は、たぶん、そんな生き方になる。

 

m(_ _)m

 

 

生きるように働く

生きるように働く

 

 

 

大きな物語から、小さな物語へ。平成最後の日に書いてみる大雑把な話。

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 官製だろうと、宮家の事情だろうと、それが押し付けであったとしても、区切りとなったのだから、それを楽しめばいい。今日が平成最後の日だ。泣いても笑っても、もう、平成という時代は戻ってこない。ここで蓋を閉めて、パッケージングされる。なにもないだらだらとした時間の流れが、ここで分けられて、整理されるのだ。
 昭和生まれで平成ジャンプなわたしにとって、元号は物心ついたときからずっと平成だった。缶ジュースが100円だろうと110円だろうと120円だろうと、プルトップが剥ぎ取り式から押し込み式になろうと、平成は平成だった(と思う)。小学校時代を引っ込み思案で暮らし、中学で優等生となって、高校で走り、大学に行って人とのつながりを噛み締めて、社会の荒波にもみくちゃにされた。学びも、仕事も、スポーツも、恋愛も、全てが平成の中にある。まさに青い春であり、すべてが平成に含まれている。
 だから、昭和のことはほとんど知らない。幼いころ、白黒テレビは現役で動いていたし、黒電話も使っていたけれど、そのときの感覚は自分の中に根付いていないと思っている。全部平成。そんな平成単体しか知らない人間が、時代の流れを書こうとしたって書けないのはよくわかっているけれど、最後の日特価ってことで、無責任に、勝手に、自分が思う平成の大きな流れを書いてみようと思った。
 メインとなる軸は「大きな物語から、小さな物語へ」。最近、聞かなくなったキーワードで、流行遅れ感が半端ではない。けども、まぁ、思いを巡らしてみたらそこに行き着いたのだから、仕方がないのである。

●◯。。。...

 平成が個の時代だったから、昭和が集団の時代だったなんて言うことはできないのだろうけど、たぶん、やっぱり、昭和の主役は大きな物語だったのだろう。それは国だったり、会社だったり、地域コミュニティだったり、家族や一族だった。
 個々の物語は、それぞれの階層ごとにまとめられて、上位階層へ上位階層へと吸い上げられた。護送船団方式、モーレツ社員、一億総中流、そしてジャパンアズナンバーワンへ。個は集団のために力を尽くすことをよしとした。いや、お国のため以外に頑張るという選択肢がなかったのかもしれない。その結束が大きな成果と、強烈な排除を生み出す。55年体制、公害、専業主婦。
 大きな物語に回収されることがやり甲斐であったのだと思う。特にそんな意識はなかったのだろうけど、会社の発展が、社会の進歩が、自分の成長として捉えられていた。徐々に生活水準は上がる。便利になる。満足感は高かったハズだ。
 そして、バブルを迎える。

●◯。。。...

 昔、誰かが言っていた。日本の戦後史はバブル以前とバブル以後で分けられる。なるほどな、と思った。簡単に言えば、バブルまでが上がり調子で、そこから先は下り坂だ。バブル以降、小さな物語が徐々に浮かび上がってくる。個人主義が台頭する。多様性が認められてくる。
 なぜ、個が舞台に上がってきたのかは、よくわからない。バブル崩壊という大失速によって、ひとつの大きな物語にすがっていては危険であるという認識が広がったからだろうか。裏で胎動していたインターネットというツールが、爆発的に広がったからだろうか。ともあれ、大きな物語への依存ができなくなり、個人の意志が尊重されるように、個人の意志を強要されるようになってきた。
 平成を通じて、大きな物語と小さな物語の立場の逆転が起こる。もしかしたら、それが歴史の必然であり、自然にそうなるべきことが起こってきたのかもしれない。
 男女雇用機会均等法が女性の社会進出を押しすすめた。徐々に男女の格差が小さくなっていく中で、専業主婦モデルは崩れ去る。もちろん、昭和の時代からananが女性の解放を仕込んでいたこともあった。フェミニズムが炎のように女性の地位向上を唱えた。単純に考えて、労働者が増加する。押し出されたサラリーマンも少なくはなかっただろう。非正規労働者もあらわれる。
 ビジネスはプロダクトアウトからマーケットインへの転換を余儀なくされる。グローバル化で市場が広がったけども、それぞれの国に適応する必要に迫られた。大量につくれば、大量に売れる世界は、なぜか、姿を消してしまった。多品種少量生産へと舵を切る。マスメディアは、ほとんどマルチメディアになった。欲望は広告で与えるものではなくて、消費者の事情にあわせてくすぐり出すものになる。
 個人主義は、自己責任論も生んだ。全体の幸福追求よりも、あなたの意志が求められる。なのに、両親や、学校は多様化にうまく対応ができていなかった。思想に対して、制度やマナーは遅れをとった。一方で、先鋭化し過ぎた思想が、社会の責任を個人に押し付けはじめたのだ。インターネットによる集団分極化がその土壌になったことは確かだろう。
 インターネットによって個人がダイレクトに世界へとつながったのも平成だった。このブログ同様に、個人の意見がそのまま露出された。木々に覆われることなく、雑草に光が当たることになったのだ。こんなブログでも日に数十のアクセスがある。前インターネット時代に数十人へと意見を伝えることができた人が、どの程度いたか。個々の物語が、好き勝手に躍り出た。大きな物語に回収されない、それぞれの物語がそこで混じり合った。有名人は、「その界隈での有名人」に少しシフトした。

●◯。。。...

 大きな物語が背景に下がって、多様性が認められつつある。ただ、小さな物語の世界は、それはそれで厳しい面も持っていることもわかってきている。すべてが個別に分かれるのではなく、それでいて、全体にまとまり過ぎることもない、ゆるいつながりが求められた。
 特に阪神淡路大震災東日本大震災は、コミュニティ喪失への警鐘となった。バラバラの個人主義も見直されて、また集団への志向も強まりつつある。それが、つながり直しであればいいが、原状復帰になってしまわないかという危惧もしている。つまるところ、日本はムラ社会をずっと続けている。能力で仕事をせず、関係で仕事をする。大きな物語は崩れ切っているわけではない。
 小さな物語の成熟にも、まだ時間がかかるだろう。個人をエンパワメントしてきたインターネットも、今やSNSやアプリに取って代わられた。それはみんなの場所ではなくなって、プラットフォームを運営する企業の意図に操られたサービスを受ける場所になっている。個人主義はまた、全体へと向かいはじめている。大きな物語を打ち立てるリーダーがいれば、一気に依存してしまうかもしれない。

●◯。。。...

 思い切って、物語るべきなのだろう。小さな物語は、まだ物語ることができていない。個々人の内に神話を打ち立てることができていない。磨かれていない。
 今日、ラジオを聞いていて、思った。ラジオはしきりに「あなたにとっての平成」を流す。リスナーの経験が、溢れてくる。マスメディアのわりに、なぜだか寄り添い上手なのが、ラジオの不思議なところだ。そして、個人の個人的経験は、なぜだか共感を呼ぶ。大きな物語を背景にして、小さな物語が際立つ。これが平成のスタイルなのだなぁ、などと思った。
 場所は選ぶべきだと思うけども、もっと自分語りをしてもいいのだろう。語りだされなければ、自分の経験を編集しようという心持ちにもならない。それぞれの道を、それぞれのものとして、いい経験をしてきたね、と、それもひとつの道だよね、と、認めてあげてもいいのではないか。大きな物語にすがってられない時代には、そんな人生の当事者会が必要となる。

●◯。。。...

 令和になる。令和の令は、ひざまずいて頭をたれ、命令を受ける形。令に口(サイ)をつければ、命となる。口(サイ)は神の言葉を入れる入れ物だ。しかし、令に口(サイ)はない。では、何を受けるのか。
 大きな物語を引き受けるのか、編み出した小さな物語を引き受けるのか、どちらだろうか、などと考える。大きな物語に回収されることなく、個々人が、踏ん張れるかどうか。それは、語り出すシステムの成否によるのかもしれない。それは、ローカルメディアや小さな出版社、ご当地アイドルといったメゾレベルのところに仕組まれるのではなかろうか。

 

m(_ _)m

 

 

インターネットは民主主義の敵か

インターネットは民主主義の敵か

 
メディア・ビオトープ―メディアの生態系をデザインする

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