meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

ラジオを探して、Google home mini に辿り着きました。

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 我が家にGoogle home miniがやって来ました。衝動買いといえば、衝動買い。といっても、結構前からスマートスピーカーは検討していて、わりといいタイミング、いい価格で購入できたのではないかな、と思っています。COSTCOで3,980円でした。
 狙いは完全にラジオです。うちはテレビなしなので、基本的にはずーっとラジオがかかっています。平日はAMのNHK第一がメイン、休日はFM岐阜がメイン。島根にいたときからこのリズムができあがっていたから(もちろん、島根のときはV−air聴いてました)、もう4年はラジオ暮らしをしています。
 特にそれで不満もなかったのですが、使っていたラジオがこれでして。

SONY FM/AMハンディーポータブルラジオ ホワイト ICF-51/W

SONY FM/AMハンディーポータブルラジオ ホワイト ICF-51/W

 

 ソニーのハンディーポータブルラジオ ICF-51です。島根移住時の、もうとにかく生活が成り立っていくのかどうかもわからない時期に買った相棒です。災害が起こっても安心の電池式。アナログな分、耐久性はありそうな、シンプルなちっこいラジオでした。
 ただ、なにぶんアナログなので、チャンネル合わせが大変だったりします。電波の入りも結構調整が必要で、あっちに持ってたり、こっちに向けたりしておりました。まぁ、それもまた楽しいわけですが、こんなにラジオってるんだからそろそろグレードアップさせてもいいんじゃないかと、どこかで考えていたのです。

●◯。。。...

 てなことで、ちょいちょいラジオを探していたのですけども、最近はラジオって高いんですね。知りませんでした。せっかくならBluetoothスピーカーとしても使えるといいなぁ、って思ったりしながら探してみると、なかなか見つからない。
 ぼくが探した範囲では、パナソニックのRF-200BTとか、ソニーのSRF-V1BTぐらいしか見つからりませんでした。

 前者が8,000円ぐらいで、後者が17,000円ぐらいでして、しかもレビューを見るとソニーの方がよさそう。いやぁ、さすがにラジオ生活だからって17,000円はねぇだろう、ってなことで。手が出ませんでした。

●◯。。。...

 そこで候補にあがったのがスマートスピーカーです。radikoでラジオが聴けるということは知っていました。問題は2つです。ネットはWimaxでつないでいるので、データ量がパンクしないか、住んでる場所ののFMが聴けるか、の2つが気がかりでした。
 結果から言えば、データ量の問題は杞憂でした。3日間10ギガバイトの制限であれば、ほぼ気になるレベルにはなりません。72時間ずっとつけていたとしても5ギガはいかなさそうな気がします。当たり前ですが、そんなにつけっぱなしにはしません。データ量は問題なし、が結論です。
 ただし、radikoの地域判定は効きませんでした。うーん、Google home自体に都道府県とか登録してるんだから、なんとかして欲しいのですけども、残念。Wimax接続ではFM岐阜が聴けず、radikoでは強制的に東京判定になってしまいます。radikoに修正依頼を出してもダメですね。Wimaxはまだうまく判定できないようです。
 じゃあ、どうするか。
 地域民を楽しみたいぼくとしては、ジモティな情報を手に入れたい。それが住むってことだろう、と、虚空に向かって叫びたいわけです。叫びませんけども。
 幸いなことに、スマートスピーカーにはBluetoothで接続ができます。スマホradikoであれば、地域判定をしてくれます。これを使うしかない。なんか全くスマートじゃないんですが、スマホでFM岐阜を受信して、Google home miniをスピーカーとして使う、ってなことをしています。今のところはしゃーなしです。

●◯。。。...

 導入してから1週間程。新時代の機器にまだ慣れはしません。コマンドの出し方が難しくて、「ねぇ、Google、えーっと、、、」とか言ってしまうと「すみません。お役に立てそうにありません。もっと勉強してがんばります」とか言われてしまう。「Spotifyミスチルかけて」とか言うと、全く違う人の曲がかかったりする。ソースによって音声レベルが違うから、音量がやたらにでかくなったりする。などなど。戸惑いは多いです。
 それでも、便利と言えば便利。料理しながら音量の調節ができるのは楽です。音も我が家比で言えば格段によくなったので、久しぶりに音楽聴く生活になりました。Spotifyで懐かしなJ-POP聴けるのが嬉しい。

 これからカスタマイズもして、いい使い方を探していくつもりです。スマート家電に変えていく、みたいなことは考えてませんが、あんまり技術に置いてけぼりくらうのもよろしくないとは思っているのです。アナログな感じも好きですけど。

 

m(_ _)m

『無限論の教室』野矢茂樹 − ロジックってやつに蹴りを入れたい

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 『無限論の教室』を読んだ。なんで読もうと思ったのかは、よくわからない。ただ、野矢茂樹さんの本がKindleで安くなっていたから、手が出てしまったとも言えるし、いやいや、何かこの手の本を読んでみたい欲に支配されていたのかもしれない。実用的な本ばかり読んでいると、そんな気持ちにもなっちゃうのである。
 アキレスと亀という話がある。例えば、アキレスと亀が徒競走をするとする。アキレスは人間?だから、当然、亀より速い。だから、アキレスは亀の後方100mから走りはじめることとする。ハンディキャップ戦なのだ。
 では、アキレスは亀を追い抜けるだろうか。
 亀が分速0.5m、アキレスが分速300mだとすると、21秒後にはアキレスが亀を抜く計算になるだろう。当たり前のことだ。もし、実際に実験してみたとしても、同じような結果になる。
 ただし、こうも考えることができる。アキレスが亀との差を2分の1にしている間に、亀も少しだけ前に進んでいる。アキレスがさらに差を2分の1にしても、その時間に亀は少しだけ前進する。以下、同様の事態が続く。差を2分の1にするには時間がかかる。時間がかかれば、その分、少しだけだろうと亀は前に進む。すると、いつまで経っても、アキレスは亀を追い抜けない。
 なんだか、足が沈まないうちに前に足を出せば水面も走ることができる、的な話にも思えてくる。実際には、アキレスが亀をぶっちぎりで抜くハズなのだ。なのに、上記のロジックでいけば、いつまで経っても追い抜けない。なぜだろうか。

●◯。。。...

 論理というものをぼくはそんなに信じていない。1に1を足したら2だよね、とは習ったものの、では本当にそうなのかといえば、そうでもないことがあるかもしれない。論理ってのは、そういうもんなのだと思っている。アキレスと亀だって、論理的に考えていけばアキレスは亀を追い抜けるし、論理的に考えていけばアキレスは亀を追い抜けない。こんなことを書くと、矛盾だとか言われるかもしれないけれども、どちらの論理にだって、今のところ、穴があるようにも思えないから仕方がない。
 ロジックなんて、そんなものなのだ。
 先人たちが努力に努力を重ねて、こう考えるとうまいこと同じ事象が再現できる、という方法をつくりあげてきた。起こってしまった現実を説明するために、論理を発達させてきた。だが、それもひとつの道具である。ひとつの視野であって、全世界を統べる法則ではない。
 ということは、どこかにまだ未完成があってしかるべきだろう。ちょっとクセがあったり、歪みだとか、テヘペロしてるような箇所があってもおかしくない。これを完全無欠のスーパーサイヤ人だと思ってしまうのは、危うい。単に、今の時代に広く採用されているっぽいルールだと思っておいた方がいい。
 いつも、そう考えている。理屈に合わなくっても、それは仕方がないのだ。

●◯。。。...

 では、もうひとつ。自然数の集合と偶数の集合はどっちが大きいだろうか。
 どちらも無限に続くとされるものである。どうだろう。どう考えるだろう。自然数と偶数を一対一で対応させていけば、延々と続けることができる。だから同じ大きさだと言えるだろうか。本当にそうだろうか。
 合わせ鏡の世界はどこまでも続いているように見える。その世界に入り込んで、突き詰めて考えていけばいくほど、うさんくささが漂いはじめる。そんなぐらぐらした基礎の上に、わたしたちの日常は成り立っている。の、かもしれない。

 

m(_ _)m

 

 

無限論の教室 (講談社現代新書)

無限論の教室 (講談社現代新書)

 

 

無印良品の鉄フライパン。長く使い続けられるものを選んだ。

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 長年使ってきたダイアモンドコーティングのフライパンが、遂にこびりつくようになってしまった。こうなってしまうと、何でもかんでもこびりつく。油をどぼどぼっと投入して、うまいこと浮かせれば何とかなることもあるけれど、毎回そんなにいい具合にできるような技術はぼくにはなくて、ちょっとくっつきはじめたと思ったら最後、次から次へとへばりつく。
 これはストレスである。
 つくるならば美味しい料理を目指すのが当然、自然。それがフライパンに阻まれる。炒めた料理の十分の一ぐらいがフライパンにべったりはりついて、ガリガリガリガリ。そんなことになっても、2ヶ月ぐらいは何とかなるさと耐えていた。相方はそれなりに対応する技術も身につけていたようである。でも、やっぱり、そろそろ買い替えてもいいんじゃないかという話になった。
 ダイアモンドコーティングを買って4年弱が経っていた。島根に移住したときに買ったフライパンセットだった。正直、よく持った方だと思う。

●◯。。。...

 恥ずかしながら、買い換える段階になってはじめて、フライパンは消耗品である、ということを知った。おかんがフライパンを買い替えてるなんてシーンを見たことがなかったし、一人暮らしとかになった後も、ホームセンターに売ってるやっすいフライパンで、まぁ、こんなもんだろう的な料理しかしてなかったからだ。
 新しいフライパンを買おうってなテンションになって、あれやこれやとネットの記事を漁って、やっとこさフライパンの事情を垣間見た。フライパンは素材によって性格が違う。テフロンは使いやすくて貼りつかないけど、その効果は永続しない。チタンコーティングとかだって、高耐久らしいけど、ずーっと使えるわけではないっぽい。セラミックはなんかうまく使わないとスグ焦げつくそうだ。鉄は手入れが大変だが、きちんと使えば長持ちするし、徐々に使いやすくなっていく。
 他にも、ステンレスとか、銅とかもあるのかな。まぁ、なんだかいろいろな種類があるし、多層構造になっているのもあって、バラエティに富んでいる。口コミ、評価、専門家のオススメも多様過ぎて収拾がつかない。情報が多過ぎるのだ。
 で、結局どれにする?という言葉を5回ぐらいは繰り返して、最終的に、この前無印良品で見かけた鉄フライパンがよさそうだった、という結論にたどり着いた。手入れが大変な鉄フライパンに手を出すのは、ちょっと勇気のいることだった。
 まぁ、どんどん買い替えて、古いものを捨てていくスタイルよりは消費的でなくてよいではないか。うん十年とフライパンを使い込むのも、楽しそうだ。

●◯。。。...

 手に入れたのは、無印良品の鉄フライパン26cm、育てるフライパンである。鉄フライパンなので、そのままスグに使うことはできない。まずは油を馴染ませる工程がある。「油ならし」というらしい。あっためたフライパンを一旦冷まして、そこに油を0.5から1カップほど入れる。再度火にかけて油をまわしながら5分ほどあたためる。油を出して、クッキングペーパーで油を拭いて、ついでに外側とかにも油を薄く塗っておく。説明書を読みながら、30分弱の休日作業。マットからテカリへ。一気にフライパンの表情が変わった。

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 これで油に馴染んだわけではない。鉄フライパンが油膜を手に入れるためには、時間がかかるらしい。今後、フライパンを使う前には火にかけて、油を入れて、出して、また油をひいて、という作業が発生する。これは「油返し」という。そんでもって、洗い終わったあとにも、油を塗らなければならない。なぜかこの作業には名前がない。
 とりあえず今日の晩ごはんのときに1回通してやった感じで言えば、まずまず楽しい。新しいフライパンが嬉しいのもあるし、なにより、炒めた鶏もも肉が美味しかったのである。焦げ方が違うのか、よくわからないけども、炭火的な、お店の味的な香ばしさがあった。フライパンひとつでこんなに味が変わるものなのかと、二人でちょっと驚いた。

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 かっちょよくて、美味しくて、長年愛用できるなんて、イカしているではないか。
 そのうちこれもいつものことになっていくだろう。それでよいと思う。油に馴染んでいき、日常に落ち着いていき、ずっとそこで使い続けられていく。
 そういうのが、好きなのだ。

 

m(_ _)m

 

 

↓↓ こっちのも気になった。

ビタクラフト スーパー 鉄 フライパン 26cm 2002

ビタクラフト スーパー 鉄 フライパン 26cm 2002

 

 

思ったことを、思ったように書く、難しさ。

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 文章を書くときに、Delete(WindowsならBackSpace)を使わないことはない。なに、文章の崩れを気にすることはない、と割り切ってズラーッと書いてはみるのだけれど、それでだって、いつも頭の中で、この表現はどうだろう、ああうまい言葉が思いつかない、なんて書いたらいいのやら、とあちこちぶつかりながら書いている。自然な言葉で書ければいいのに、その自然を引き出すために頑張ってしまう。かといって、肩の力を抜いてみても、ひと言も前には進まない。
 『なるほどの対話』という本を読んだ。河合隼雄さんと吉本ばななさんの対談本で、年始にふらっと寄った古本屋、徒然舎の100円均一コーナーに並んでいたものだ。安かったし、ちょっとおもしろいかもなぁ、ぐらいのテンションで買ってしまっていた。それこそ肩の力を抜いて、だらーっと読んだ。内容はともあれ、やっぱり本を書けるような人はすごいな、と改めて感じた。

●◯。。。...

 本だと、1ページにだいたいどれぐらいの文字がひしめいているのだろう。ちゃちゃっと検索してみたところ、新書は1ページで600字ぐらい、ってところらしい。それが200ページとかそれぐらいはあるんだから、12万字ぐらい。このブログのこの前の記事が1200字ぐらい。なかなかにすんごい文字量だと思う。
 河合隼雄さんと吉本ばななさんの対談本にも、ちょいちょいと「対談を終えて」的なコラムが挿入されていた。さらりと書いてあるようでいて、意外と長い。1ページで感想が述べられることなんて、まぁ、ないわけで。10ページ弱だとすると、6000字ぐらいはあるか、新書じゃないからもうちょっと文字数が多いかもしれない、という感じである。そんな長さの文章を、書いたことがあるだろうか。書いたことがある人は、どれぐらいいるだろうか。
 書く機会は、意外と少ない。長い文章を書く機会は、さらに少ない。ゆえに、文章を書く力はなかなか身につけられるものではない。誰でも書けるでしょ、は言い過ぎである。2000字書ける人は、結構すごい力を持っていると思っていいと思うし、5000字書くなんて特殊能力みたいなものだ。(それも言い過ぎかもしれないが)

●◯。。。...

 当たり前だけれど、例えば5000字書こうとするならば、5000字分の内容が必要になってくる。この記事のタイトルは「思ったことを、思ったように書く、難しさ」なのだけれど、思ったことを思ったように書くって難しいなぁ、ってだけでは40字も埋まらない。埋まらないし、それだけだと内容がぺらんぺらんで、読んだところで、ほぇー、そーかいそーかいである。ちょっとくらいは気の利いたことを書かなければ、読むに耐える文章にはならない。
 ビジネスだと、その辺りの事情が変にこじ曲げられていて、結論だけ書けー、贅肉はつけるなー、無駄話が長いぞー、と言われてしまう。けども、敢えて言うならば大概の文章は贅肉だらけである。それを削ぎ落とすと、どえらい大作、不朽の名作になってしまうので、そんなにピンと張りつめた文ばかり読み書きするわけにもいかない。何より、途中脱線こそが楽しいし、豊かだし、それが人生ってもので、ということは、実は贅肉の方に美味しさが滲んでいると考えた方がいい。
 骨を立てた上で肉をつけて、それなりに読み応えのある文章に仕上げてしまえるってのはすごい。それも、考えたことや、経験や、感触、感覚、見えたもの、雰囲気、などなどを自然に付け加えて、混ぜあげるように文章に落とし込めるってのは、どういう力なのだろう。情報を集めて、整理して、組み立てて、意外な視点を導入して、なんてやり方はあるのだろうけども、いやぁ、そればかりじゃない面がきっとあると思わされてしまう。

●◯。。。...

 さらりとした、それでいてしっかりしていて安心できる文を読んでいると、たぶん、ほとんど呼吸するように書いているんだろうなぁ、と思うことがある。同じような言い回しが続いちゃってるな、とか、この単語はさっき使ったから変えたい、とか、そういったおどおどした感じがない。
 それを才能と言ってしまえばそれまでである。でも、ぼくはそれを才能とは思いたくなくて、きっと、するりと言葉が出てくるようにトレーニングされているハズだと考えている。トレーニングといっても、ロジックを組んで、結論が先で、これとこれが補論で、というやつではなくて、もっと言葉と親しむような、サッカー選手がボールを事もなげに扱えるのと同じ感覚の、トレーニング。そういう、思ったことを思ったように書くトレーニングって、誰かが開発してないのだろうか。もし、そんなプログラムがあったなら、受けてみたいなぁ、などと思う。

 

m(_ _)m

 

 

なるほどの対話 (新潮文庫)

なるほどの対話 (新潮文庫)

 

 

『翻訳夜話』 村上春樹・柴田元幸

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 村上春樹は嫌いだ。と、思っていた。文章がまだるっこしいし、そのうち何を読んでいるのかわからなくなるし、結局どういう話だったのかもピンとこない。読んでいるうちに字面をずーっと追っかけるだけになってしまう。だから、ぼくはハルキストにはなれない。それは今も変わらない。
 ただ、この秋ぐらいから村上春樹がたまーにFMでしゃべりはじめていて、「村上RADIO」というその番組は結構好きになった。声はなかなか落ち着いていて雰囲気がある。話す内容も作家らしく、そんなこと考えてんのかいな、と素直に笑えるものだったりした。意外と親しみやすい一面もあるのだなぁ、などと思った。
 『翻訳夜話』はそんな村上春樹と翻訳がメインの柴田元幸氏の対談本である。村上春樹村上春樹と言い切れるのに、柴田元幸柴田元幸と言い切れずに「氏」をつけたくなる、不思議。それだけ村上春樹のキャラクターが立っているってことだろう。

●◯。。。...

 対談本であるからには、読みやすい。どちらも翻訳家。片一方は小説も書くし、自分の小説が他の国の言葉に翻訳されもするし、翻訳もする。どちらも翻訳に関しては一家言持っているというか、まぁ、とにもかくにも翻訳好きなのである。おっちゃんたちが自分の趣味について答えも出ないことをぐるぐるとしゃべくりまくっているような感じになった。内容がちょっとマニアックだから、それはそれで聞いていておもしろい。どちらも翻訳家として成功している身なので、その分はズルいなと感じるところもあったけども。

 翻訳が意識できるようになると、読書はまたおもしろくなってくる。ぼくは小松太郎訳のケストナーも好きだけど、やっぱり丘沢静也訳信者なところがあって、軽快な、歯切れのよいハコビに憧れているところがある。松江のBOOK在月イベントで亀山郁夫先生の話を聞いたときには、大いに興奮した。だって、ひとつの原文という入力に対して、どうやって日本語に落とし込むか、その出力が何通りも考えられるし、どれもが正解であると言い難いし、明らかな不正解はあるものの、では、どれがどの程度不正解なのかは測ることができないなんて、楽しいではないか。
 原文がある。いくつかの翻訳例がある。では、どれがよいか。なぜ、それを選ぶのか。その熟考によって、翻訳は練り込まれていく。意訳すればいいってもんじゃなく、直訳すればいいってもんでもない。他人の作品を引き受ける、その責任感の中で進む覚悟が気持ちいいのだろうなと思う。

●◯。。。...

 学校教育の中で、作者の気持ちを問うような問題ってのはあったりするけれど、翻訳者の気持ちを問う問題ってのはそうそうないだろう。気持ちというか、苦労とか、苦悩みたいなもんかもしれない。こう書いてよいものか、どうか。
 『翻訳夜話』の中には、短編が2つ、村上訳バージョンと柴田訳バージョンで載っている。当たり前だけれど、やっぱり違った作品になる。細部の違いを味わいながら読んでみると、楽しい。その先には、翻訳という沼が待っている。

 

m(_ _)m

 

 

翻訳夜話 (文春新書)

翻訳夜話 (文春新書)

 

  

飛ぶ教室 (光文社古典新訳文庫)

飛ぶ教室 (光文社古典新訳文庫)

 

 

罪と罰 1 (光文社古典新訳文庫)

罪と罰 1 (光文社古典新訳文庫)