meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

無理が上から降ってくる、サラリーマン的哀しさについて

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 経営者ってのは、そんなもんじゃないの、と、名古屋で会った友達は言った。今の上司がさ、社会人になってから初めて出会うレベルの馬鹿なんだよね、と、東京で会った友達は言った。どちらも仕事上の話で、どちらも指示に関係する話である。
 一方は、大量の郵送タスクに対して、住所が与えられていなかった。他方は、2つのタスクがふってきたときに、優先順位が与えられていなかった。優先順位を確認したときの答えは、どちらもやれ、であったという。それでは間に合わない、が現実の状況である。
 あるある話だよなぁ、と思う。これがあるある話になっている、ってことに、ある種の哀しさを感じる。住所がないと言った友達は、もちろんそれを確認する術がなかった。名前と肩書きから、ひとつひとつ検索して、見つからんかったらどうするかなぁ、とボヤいた。

●◯。。。...

 仕事とは、そういうものである。と言われればそれまでだろう。なんせ仕事は上から下へ流れるものだからだ。逆流したり、中間あたりで流れがぶつかったりすることも多いんだけど、通常は上から下である。上の采配に口出すことはまかりならず、結果としてサラリーマンの悲哀が生まれる。
 三角形の底辺はわかっているが、高さは不明である。さぁ、面積を求めなさい。前職にいたとき、そんな指示を理不尽だと言ったことが、わたしにもあったような気がする。諫言は聞き入れられないところまでがテンプレであって、きょとんとした顔でこう言われるのだろう。高さがあるなら、面積は誰にでも出せる。高さを見つけ出すのがあなたの仕事ではないのか、と。当然、このコミュニケーションは成り立っていない。底辺の長さだけで三角形の面積を求めることは不可能なのだ。

 ここでは2種類のタスクを考えなくてはならない。固いタスクと柔らかいタスク、仮にクローズドタスクとオープンタスクと言ってみる。前者はパズルみたいなもので、パーツが揃ってないとどうしようもできない。後者は絵を描くようなもので、こたつとみかんとネコを描けと言われたとしても、それなりの自由度が残っている。前者は正確性が求められるし、後者は相手の好みに合ったものが求められる。これらはカッチリわかれるものではなくて、人によってもクローズ性とオープン性の度合いは変わってくるものだと思う。
 上に書いてきたような指示の理不尽さは、クローズだと認識しているところに、オープンな扱いがくるために起こると考えられるってことだ。まぁ、だからといって、このピースが足りませんよと伝えたところで、状況が変わりはしないだろう。上流の流れは上流でしか変更がきかないことが多い。未完成のパズルを未完成のまま、三角形の高さを目分量で適当に設定したまま、なんとなく完成したように見せかけて持っていき、意外とそれがすんなり通っていくというのも、また、あるある話だったりするのである。上もピースを全て持っているわけじゃなかったりするから、話は難しい(領収書なくしてたりね)。

●◯。。。...

 これらの曖昧を人間らしいと言って、可愛がることもできなくはないだろう。だけども、個人的には、もうちょい理を立ててくれないかと、思うことが多い。無理が通れば、道理がひっこむ。いつの間にか、これが大変に嫌いな言葉になってしまった。パンがなければ、お菓子を食べればいいじゃない。彼らはさらりとそう言ってのける。お菓子を選択できるのは、あなたがその地位にいるからなのだ。
 せめて、無理を無理だろうと認識するぐらいのことはして欲しいもんだ。困難と無理は決定的に違う。そういう良識を持った人が、ちょいとでも増えてくれたら、過ごしやすい世の中になるのになと、思う。

 

m(_ _)m

 

 

 

流し、流され、新年を迎える。【2017年】

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 新年、あけましておめでとうございます。今までは帰省するとネットのつながらない生活だったのですが、今年から無事、ネット環境が確保されました。au回線からdocomo回線に乗り換えたお陰です。まだ使えるiphone6を諦めて、新しい機種を買った甲斐がありました。速くはないけど、つながるだけでありがたし。いい時代になったもんです(←すんごい時代遅れなこと書いてますがw)。
 さて、2017年です。ニューイヤー駅伝では旭化成が18年ぶりだかの優勝を勝ち取りました。年末から番組宣伝がやたらに多いようなテレビをわんさか浴びて、寝正月へと突入しております。食べて、寝て、テレビ見て、食べて、寝る。なんか理想的な生活リズムのような、そうでないような状態になりました。年末年始の予定がこんなに少ないのも、久しぶりかもしれません。休みあけのリハビリには苦労しそうです。(;・∀・)

●◯。。。...

 それにしても。「やらなければならないこと」があるときに限って、こういう怠けが活躍するのはなぜなのでしょうか。本当なら寝正月なんて呑気なことを言ってられる場合じゃなく、こんな駄文をカタカタ打ってる暇があるなら資料を読み込まなければ、って状況なのでした。もういくつ寝ると、最後のお題の締め切りです(笑)。この秋からはじまっていた物語講座のラスボス、1万2千字が待っています。あれ、なんかこの文章を打っている手に冷や汗が滲んできました。いやぁ、まぁ、焦ってどうにかなるものでもないとか、うん、はい、言い訳ですけどね。はい、手を動かします。
 ちなみに、ラスボスは歴史小説もの?です。ここ1ヶ月程度で、わたしの中の司馬遼太郎への尊敬の念は、まさしくうなぎのぼりです。過去の人物を追いかけること、その世界観を手に入れることが、こんなにも大変だったのかと、今更ながらに痛感しています。
 あのとき、あの場所で、誰と誰がどう関係して、どんな物語が紡がれていったのか、なんてことを見つけ出すのは至難です。どれだけ資料をあさっても、出てこないものは出てこない。出てきたとしても、英語だったり、フランス語とか、中国語とかだったりするんですから、素人にとってはないも同じです。では、狙っているものから範囲を広げて資料を集めようとすると、今度は大量のデータがヒットしてしまう。それも、おおよそが「使えないデータ」です。Google先生がこんなに非力になることもあるのかと、思い知りました。掘り出されていない情報は、まだまだまだまだ眠っているものなのでしょう。
 ただ、こうやって巨大な未知を相手にもがいていると、たまに掘り出し物を見つけられたりもします。おお、ここはこうなっていたのか!?という発見です。お題がなければ、このような見方もできなかったし、こんな探検を味わうこともなかった。興味があるかないかなんて、意外と大したもんじゃない。それよりも「◯◯について調べる」機会をつくれるかどうかなのだろうな、と感じます。今回みたいに物語を書くとなると、漫然と読むだけでは全く足らない。丁寧に集めるし、詳細に読む。そして、その方が断然おもしろくて楽しいものなのです。体力はいるけど。

●◯。。。...

 自発性とか、内発力とか、モチベーションとか、夢とか、希望とか。こうなってくると、やたらに人の内部に答えがあるとされがちな世の中には、やっぱりジャブぐらいは打っておきたくなってしまいます。それらを否定はしないけど、けどけどけど。目の前に差し出されたものに反応すること、対処すること、そうやって過ごしていくことの大切さも噛んでいかないと、旨味は出てこないのではないでしょうか。他発性も、外発力も、持っておけばいいじゃない。

 そんなこんなで、謹賀新年。今年も読んだり、撮ったり、書いたりを繰り返していきます。どうぞよろしくお願いいたします。

 

m(_ _)m

 

 

ひとりでは生きられないのも芸のうち (文春文庫)

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