meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

文章を書く感覚について。

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 ここ数日、何か書きたい気持ちに襲われているのだけれども、一向に書くことが見つからなくて困っている。こういうときの頭の中は、あれやこれやといろんな声で騒がしくて、見るもの、聞こえるものに刺激を受けての井戸端会議が際限なく巻き起こる。
 厄介なのは、頭の中では流暢に、理路整然と、巧みな表現で、語っているハズなのに、さぁ、いざ、書かん、と向き合ったときには全て、すっかり、すっからかんと忘れてしまうことだ。アレを書きたかったのになぁ、コレを表現したっかったのになぁ、などと嘆いてはみるが、だいたいは徒労に終わる。
 たまにはスマホにメモなんかをしていることもある。が、メモが役に立つことは稀である。鮮度が全然違うのだ。あんなにおもしろかった「井戸端会議」なのに、時間を置いて書いてみれば、何かが違う。壊した積み木をイチから組み立てるように、そっとひとつずつ置いてみるのだけれど、あれよあれよと言う間に説得力が、語気が、リズムが衰えてしまう。げに、文章は難しく、書くことは深い。

●◯。。。...

 何か、書きたいことがあったとする。それについて、書こうとパソコンをあける。テキストエディタを立ち上げて、さぁ、まずは一言、何かを入力してみる。すると、途端に世界が狭まる。「今朝」と書いた瞬間に、その文章は「今朝縛り」を受けてしまう。さらに「バスに乗ったとき」と書けば、次は「バスに乗ったとき縛り」が加わる。どんどん世界が狭まっていき、いつの間にか高層ビル群に囲まれてしまったかのような息苦しい世界になってしまう。原っぱの奔放さはなく、進む道は決められていて、わずかだ。
 息苦しさに耐えられなくなってきたところで、息継ぎをする。段落を分けたり、パラグラフや節、章をつくったりする。このタイミングも、書いているとなかなか難しいように思えてくる。読んでる側はそんなに気にしないだろうに、書く方はむやみに気がまわってしまうのだ。
 こう考えてみると、書こうとしていることを書くためには、最初から最後までが一連なりになって現れないとどうも具合が悪いようだ。因果同時、ではないけれども、ポンッと生まれたものが、そのままポンッと写し取られるぐらいでないといけない。ダラダラと地上を歩いているから、あっちの景色に誘われ、袋小路に迷い込むのだろう。ま、そんなスパンッと書きたいことが書けるような人間は、そうそうおらん。
 凡人たる我々は、やっぱり地べたを歩き回って、高層ビル群に囲まれたり、ぬりかべの通せんぼをくらったりしながら、なんとかゴールにたどり着こうとして、ゴールを見失うのだ。言葉の連鎖はそうやすやすとコントロールできるものじゃない。それと付き合うことは、とってもマゾヒスティックだと思う。我ながら。

●◯。。。... (息継ぎ)

 それでもわたしには書きたい衝動があるから、不思議なのだ。何かあると頭の中で井戸端会議が始まり、ああ、これは書きたいなと感じる。その内容は、自分にとってはとってもおもしろいものだったりするし、今、書いておかないといけないと純真に感じるものだったりもする。
 だから、ひとこと書いて、またさまよい始める。行く宛とは違うところに来てしまって、なにか違うとため息をつき、それでもまぁいいかとお気楽に。

 

m(_ _)m

 

 

魂の文章術―書くことから始めよう

魂の文章術―書くことから始めよう

 

 

『技法以前』あの頃の世界観を引き出しておく読書

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 この春、大学を卒業する友達に本を贈った。彼の何がスゴイって、自分の卒論を窓口やってるオッサンに手渡したことだ。提出場所が窓口だったわけじゃない。ある日、さらりと現れて、どうぞ、と言って、わたしの手にはプリントアウトされた卒論が残った。たぶん、わたしはポカンと口をあけていたと思う。他の人に卒論を見せるなんて、そんな勇気はわたしにはなかったし、世の中の大学生のほぼ全てが同じような感覚を持っていると信じ込んでいた。ところが違ったのだ。
 その勇気に応じたくなったのは当然のことだった。門外漢ながら書いてあることを読み込み、どこがどうつながって、何が導かれているのかを「あーだこーだ」と言いながら探った。専門的な話は全くわからない。けども、読み手としての意見なら返すことができる。いくつかのポイントに絞り込んで、返事を書いた。「それ、ひかれるんちゃう」と言われたけども、ひとまず送った。その後、彼からはいくつかの返信があった。

●◯。。。...

 そんな相手に贈る本を買いに行き、ウロウロウロウロと本屋を徘徊して、最終的に行き着いたのが『技法以前』だった。言わずと知れた「べてるの家」の本で、精神障害がテーマになっている。贈る相手の専門からは大きく逸れる。でも、きっと楽しんでくれると思った。
 そのくせに、帰宅して、お茶を飲んで、ふと冷静になってみると、ほとんど内容を覚えてなかった。なんとなくのさわり心地ぐらいのものしかなくて、久しぶりに読んでみたくなった。6年とか7年ぶりの再読である。

 「三度の飯よりミーティング」「自分の苦労を取り戻す」「弱さの情報公開」「勝手に治すな自分の病気」などなど、懐かしい世界観が広がる。自分自身が支援者だったころ。そのころにどんな対応をしていたかが、ちょいちょいと思い出される。結局、勢いにまかせて一気に読んだ。
 考え方。ときに絶望的とも思える現実に対して、どういうスタンスをとっているか。その科学的でユーモラスなスタイル。職人によるミラクル話のように見えて、そこにおさめてはおけない、大きな変革の話がある。胸の奥の方で、じっくりと流れているものを掘り出してくるような作業で、だから、わたしは『技法以前』を手に取ったのかもしれない。そういう意味では、自分のための選本だったとも言える。

●◯。。。...

 どうも最近のわたしには「あの頃」があって、そのときの世界をちらりちらりと覗きこみたくなっているようだ。大きな安定期を享受した一年から、次のステージを模索する局面への備えに入っている。
 今の立ち位置にいられるのはあと1年と少しだけである。経験を総動員して、耳をすまさなければならない。風をよんで、波に乗る。その準備運動なのだろう。
 わたしはわたしの苦労を、引き受けられるだろうか。

 

m(_ _)m

 

 

技法以前―べてるの家のつくりかた (シリーズ ケアをひらく)

技法以前―べてるの家のつくりかた (シリーズ ケアをひらく)