meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

『レトリック感覚』発見する比喩、発展して物語。

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 文体が気になりはじめたのはいつ頃だったか。レイモン・クノーの『文体練習』を某NPO代表からすんごい長い期間借りっぱなしにしていたときには、まだ、そんなに気にしていなかったと思う。ただ、その頃から、ぼくは鬱屈していた。書いても、書いても、届かない何かがある。meta.kimuraを書きはじめたときから、少しずつ積もってきた違和感。もう、5年ぐらい前のことだ。
 文章には限界がある。言葉で区切った世界のハザマに落っこちるものがあって、それは言葉にできない。できないから、文章では切り込めない。分析できない。扱えない。でも、それこそが、大切なものなのではなかろうか。書いても、書いても、届かない。原理的に、届かない。

●◯。。。...

 だから、ぼくは写真を撮っているのだろうと思ったし、物語にも目をつけた。イシス編集学校の物語講座に、うっかり申し込んでしまったのはそのためだった。思えば最初っから、「遊」という物語講座を目指して編集学校に入ったのだった。

 物語は、比喩だ。レトリックだ。写し取りたいことに、直接切り込む野暮な分析家ではない。ヒストグラムを見たって、写真の美しさはわからない。その迫力は、繊細さは、湿っぽさは、シズル感は、写真そのものを見ないと伝わってこない。燃えるような赤は、絵の具の赤じゃないのだ。足の疲れを伝えるのには、足が棒になったと言った方がうまく伝わる。
 Aを伝えるのに、Bを使った方がいいというのは、なんだか矛盾した話だけど、どうやらそれが本当のことらしい。やたらに幅をきかせている合理や論理が、真実ではないという、いい例だと思う。
 つまり、物語も、レトリックも、違うのは大きさだけで、やっていることは同じなのだ。そして、これらがあるから、言葉は自由に飛べる。言葉と言葉の合間を掬うことができる。この重要性に、ぼくらはもっと気づくべきなのだろう。『レトリック感覚』の著者が言うように、レトリック教育があっていいはずなのだ。言葉の装飾であり、虚飾だったり、化粧だったり、嘘偽りだったりもするようなことを、扱って、乗りこなすために。

●◯。。。...

 そう。往々にして、レトリックは嘘偽りと見なされる。そのせいで、レトリックは一時期冷遇されたらしい。人は虚飾を好まない。今でも、装飾や見栄や化粧を嫌う人たちがいたりする。ナマがいいなんて、くそくらえだ。
 AをAに閉じ込めておかないからこそ、そこに発見が生まれることが、見逃されているのだ。そこがレトリックのメインディッシュなのに。色気づいた中学生男子の整髪料に、女子の化粧に、悶え苦しむいじらしさが宿る。AはAでいられず、Bを求めていく。その過渡期が美しさであるし、ユーモアもその辺りに生息しているのだ。

 レトリックで出てくる味が、さらになにかを深めていくのだ。そんなこんなで頭をぐつぐつ煮込む。なかなかに楽しい。

 

m(_ _)m

 

 

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

 

 

文章を書く感覚について。

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 ここ数日、何か書きたい気持ちに襲われているのだけれども、一向に書くことが見つからなくて困っている。こういうときの頭の中は、あれやこれやといろんな声で騒がしくて、見るもの、聞こえるものに刺激を受けての井戸端会議が際限なく巻き起こる。
 厄介なのは、頭の中では流暢に、理路整然と、巧みな表現で、語っているハズなのに、さぁ、いざ、書かん、と向き合ったときには全て、すっかり、すっからかんと忘れてしまうことだ。アレを書きたかったのになぁ、コレを表現したっかったのになぁ、などと嘆いてはみるが、だいたいは徒労に終わる。
 たまにはスマホにメモなんかをしていることもある。が、メモが役に立つことは稀である。鮮度が全然違うのだ。あんなにおもしろかった「井戸端会議」なのに、時間を置いて書いてみれば、何かが違う。壊した積み木をイチから組み立てるように、そっとひとつずつ置いてみるのだけれど、あれよあれよと言う間に説得力が、語気が、リズムが衰えてしまう。げに、文章は難しく、書くことは深い。

●◯。。。...

 何か、書きたいことがあったとする。それについて、書こうとパソコンをあける。テキストエディタを立ち上げて、さぁ、まずは一言、何かを入力してみる。すると、途端に世界が狭まる。「今朝」と書いた瞬間に、その文章は「今朝縛り」を受けてしまう。さらに「バスに乗ったとき」と書けば、次は「バスに乗ったとき縛り」が加わる。どんどん世界が狭まっていき、いつの間にか高層ビル群に囲まれてしまったかのような息苦しい世界になってしまう。原っぱの奔放さはなく、進む道は決められていて、わずかだ。
 息苦しさに耐えられなくなってきたところで、息継ぎをする。段落を分けたり、パラグラフや節、章をつくったりする。このタイミングも、書いているとなかなか難しいように思えてくる。読んでる側はそんなに気にしないだろうに、書く方はむやみに気がまわってしまうのだ。
 こう考えてみると、書こうとしていることを書くためには、最初から最後までが一連なりになって現れないとどうも具合が悪いようだ。因果同時、ではないけれども、ポンッと生まれたものが、そのままポンッと写し取られるぐらいでないといけない。ダラダラと地上を歩いているから、あっちの景色に誘われ、袋小路に迷い込むのだろう。ま、そんなスパンッと書きたいことが書けるような人間は、そうそうおらん。
 凡人たる我々は、やっぱり地べたを歩き回って、高層ビル群に囲まれたり、ぬりかべの通せんぼをくらったりしながら、なんとかゴールにたどり着こうとして、ゴールを見失うのだ。言葉の連鎖はそうやすやすとコントロールできるものじゃない。それと付き合うことは、とってもマゾヒスティックだと思う。我ながら。

●◯。。。... (息継ぎ)

 それでもわたしには書きたい衝動があるから、不思議なのだ。何かあると頭の中で井戸端会議が始まり、ああ、これは書きたいなと感じる。その内容は、自分にとってはとってもおもしろいものだったりするし、今、書いておかないといけないと純真に感じるものだったりもする。
 だから、ひとこと書いて、またさまよい始める。行く宛とは違うところに来てしまって、なにか違うとため息をつき、それでもまぁいいかとお気楽に。

 

m(_ _)m

 

 

魂の文章術―書くことから始めよう

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