meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

ニュースの言葉から。

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 相模原障害者施設殺傷事件から1年が経ったというニュースが、ラジオから聞こえてきた。テレビがないわが家の朝は、NHKラジオではじまるのだ。何気ない夏の朝。ああ、もうそんなに経ったかと思い出していたら、こんな言葉が飛び出してきた。「被告は今も自分のゆがんだ考えに固執しており・・・」。目が点になった。聞いていた二人が二人とも、朝ごはんを食べる手を止めた。おいおい。なんだそりゃ。
 天下のNHKが、「ゆがんだ考え」なんてものがあると思っているのだろうか。しかも報道で使う言葉である。その選択に、疑問はなかったのだろうか。戸惑いなく言い切ることができたのだろうか。違った意味で、びっくりするニュースになってしまった。

 だいたい「考え」ってのは人それぞれ、千差万別のものである。世の中には、とにかく金稼げりゃいい、って考えてる人もいるし、子供と遊ぶのが何よりの幸せだー、って考えてる人もいる。それらは正しいとか間違っているとかで話すもんではない。道徳的に、倫理的に、善か悪かということならば、わかる。わかるけども、やっぱり一方的に悪だと言い切ってしまうのは、ちょっと気持ちがざわつく。
 被告にとっては自分の考えが正しいはずだ。その考えを「ゆがんだ」という言葉で、ギュッと封じ込めてしまうのはいかがなものか。見もせずに、着信拒否し、ブロックしてしまうような激しさを感じてしまった。彼はまさに、排除されようとしているのだ。

 せめて「偏った考え」とか「自分の考えに固執し」とかの表現にならなかったものか。

●◯。。。...

 ところで、この前、かの有名な外山恒一氏がこんなことを書いていた。「パリ警官襲撃、ISに忠誠か」という朝日新聞の記事を読んでのことである。

とくに何の変哲もない文章だとたいていの人は思うだろう。しかし私は「ん?」と引っかかった。内容にではない。「過激思想に染まった」という表現である。「昔の新聞って、こんな表現をしてたかなあ?」と。してたかもしれないが、してなかったような気がする。

現代マスコミ人批判 ・・・波瀾万丈の物語の作者や読者になるより登場人物になったほうがいいに決まっている | 外山恒一のWEB版人民の敵

 

 覚えている方は覚えている、あの大変に過激な政見放送を成し遂げた方である。ネタとして見ていた人も多いし、まぁ、ネタだったんだろうけども、心ある諸氏はその慧眼っぷりにちょこっと惹かれたりしたものだった。正直、この方は結構賢いのだ。
 そんな過激な知識人も、なんか最近のニュースの言葉にひっかかったらしい。確かに「過激思想に染まった」なんて、ドキツイ表現である。洗脳でも受けたんだろうか。洗礼は受けているかもしれないけど。

●◯。。。...

 アメリカ・ファーストな人の影響なのか、何なのか知らないけども、最近わりと激しいのだ。文春が突撃して暴露するのはかまわないけども、NHKニュースなら真相を明らかにして欲しい。その辺のバランス感覚が、なにやらおかしくなっている。
 それと同時に、全くブログが書けなくなっていた期間にぼやっと考えていたことは、この時代に言葉がどれほどの役割を果たせるだろうか、というようなことだった。「話せばわかる」と犬養毅が言った言わなかったかはわからないが、北の方からは「まず一発殴って、地球上から消滅させたるけんのぉ」というような脅威がオラオラと暖機運転し続けている。筋肉一発に、言葉は通じない。
 要するに、緊急事態に対して、まずは一杯お茶を飲めとは言えなかったのだ。ヤン・ウエンリーなら飲んだだろうが、彼も最後は暴力に勝てなかった。

 今回、やっとこさ書こうと思えたのは、そんなこと言ってられないくらいの状況になりつつありそうだからかもしれない。言葉がインフレしてきている。気がする。

 

m(_ _)m

 

 

街場の文体論 (文春文庫)

街場の文体論 (文春文庫)

 

『苦海浄土』と。

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 読み終えた。実は1ヶ月程前には読み終えていた。だけども、なかなかに身体が重く、書く気になれなかった。水俣病という内容にずどーんとやられて、タジタジしてたわけではない。いや、やられたにはやられたのだが、とにもかくにも、最近は筆が重いのである。
 書きたいことが書けない。自分の力不足が見たくないのだ。

 避病院から先はもう娑婆じゃなか。今日もまだ死んどらんのじゃろか。そげんおもいよった。上で、寝台の上にさつきがおります。ギリギリ舞うとですばい。寝台の上で。手と足で天ばつかんで。背中で舞いますと。これが自分が産んだ娘じゃろかと思うようになりました。犬け猫の死にぎわのごたった。

 統一されない文体、語り口。聞き書きのような文章に医師の記録がスッと挟み込まれる。水俣病を取り囲む断片たちに、困惑した。濃密な文章を、合間合間の時間に読んでいったからかもしれないけれど、時系列もわからなくなった。長きにわたる事件の、いつの時代に飛んだのか、飛んでいないのか。
 どうやらそんなことはどうでもいいらしい。順序がどうとか、アレが起きてからコレが起きたとか。そういう事実を客観的に見るような目線を、メインには据えていないように思えてきた。これは、この混濁したような認識が、書き手の見ているもの、そのものなのかもしれない。勿論、わたしの頭が足らないから、そう思えてしまったのかもしれないが。

 漁師の生活はぐっと美しく、病は凄惨だった。

 水俣病患者家庭互助会代表、渡辺栄蔵さんは、非常に緊張し、面やつれした表情で、国会議員団の前に進み出ると、まず、その半白の五分刈り頭にねじり巻いていたいかにも漁師風の鉢巻を、恭しくとり外した。すると、彼の後ろに立ち並んでいる他の患者家庭互助会の人びとも彼にみならい、デモ用の鉢巻をとり払い、それから、手に手に押し立てていたさまざまの、あののぼり旗を、地面においた。
 このことは、瞬時的に、水俣市立病院前広場を埋めつくしていた不知火海区漁協の大集団にも感応され、あちこちで鉢巻がとられ、トマの旗が、ぱたぱたと音を立てておろされたのである。
 理想的な静寂の中で、渡辺さんの次に進み出た小柄な中年の主婦、中岡さつきさんがとぎれ勝ちに読みあげた言葉は、きわめて印象的であった。大要次のごとくである。
「……国会議員の、お父さま、お母さま(議員団の中に紅一点の堤ツルヨ議員が交じっていた)方、わたくしどもは、かねがね、あなたさま方を、国のお父さま、お母さまとも思っております。ふだんなら、おめにかかることもできないわたくしたちですのに、ここにこうして陳情を申しあげることができるのは光栄であります。
 ……子供を、水俣病でなくし、……夫は魚をとることもできず、獲っても買ってくださる方もおらず、泥棒をするわけにもゆかず、身の不運とあきらめ、がまんしてきましたが、私たちの生活は、もうこれ以上こらえられないところにきました。わたくしどもは、もう誰も信頼することはできません……。
 でも、国会議員の皆様方が来てくださいましたからは、もう万人力でございます。皆様方のお慈悲で、どうか、わたくしたちを、お助けくださいませ……」
 彼女の言葉に幾度もうなずきながら、外した鉢巻を目に当てている老漁夫たちがみられた。人びとの衣服や履物や、なによりもその面ざしや全身が、ひしひしとその心を伝えていた。
 日頃、”陳情”なるものに馴れているはずの国会派遣調査団も、さすがに深く首をたれ、粛然たる面持ちで、
 「平穏な行動に敬意を表し、かならず期待にそうよう努力する」
 とのべたのである。
 陳情団代表の人びとも、これをとりまく大漁民団も、高々とのぼりをさしあげて、国会調査団にむかって感謝し、陳情の実現を祈る万歳を、力をこめてとなえたのであった。
 なるべく克明に、私はこの日のことを思い出さねばならない。

 えらい長く引用してしまった。わたしは何も知らなかったのであり、想像力に欠け過ぎていたのだった。
 得体の知れない病気が起こりはじめた時代のこと、その場所のこと、そのころの文化、どういう人たちが、どんな風に受け取ったのか。1950年の後半の、地方の漁村に、突如として現れた未知の病気は、当初、原因が不明だったのだ。治療なんて、できるわけもなかった。
 ほとんど、ホラーなのだ。症状は甚だ重く、多様で、身体がうまく動かせなくなってきたと思ったら、視野狭窄、不随意運動、雄叫びをあげて、踊り狂って死ぬ。戦後から、高度経済成長に入ろうというときの、地方の、漁村でのことだ。そして、そこに「会社」が深く関わってくる。それが、町の経済を支える「会社」だったのだ。

 世の中というのは、とても複雑で、罪深い。
 水俣湾の安全宣言がなされたのは、1997年である。

 

m(_ _)m

 

 

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

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