meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

根拠と根拠っぽいもの

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 統計データを信じてもらえない、という話が我が家の食卓に飛び出してきた。曰く、政府統計のデータを使っているのに根拠として認めてくれない、とのこと。
 策を打つには現状を知らなければならない。それは至極当然ごもっともである。しかし、現状把握と言っても、何でもかんでも今の状況をそっくりそのままトレースできるもんでもない。だから人は統計データだとか、マーケティングデータだとかを使って近似値を求めようとする。それしかないのである。渋谷区の年齢構成を知るために、ひとりひとりをつかまえてインタビューするなんてこたぁ、どだい無理な話なのだ。なのになのに、でもでも、どうやらサンプリングしたり、推定したりした数値を、根拠とは思ってくれないようなのだった。
 そんなに精密でなくてもいいじゃない、とも言いたくなる。というか、そもそもきちんとした統計であればそれなりに正確なのである。なぜに信じてもらえないのか。

●◯。。。...

 人は根拠よりも根拠っぽいものを信じる。根拠にはいくつかの神話があるような気がするのだ。例えば、既に加工できるってことを知ってるくせに、写真神話と音声神話はかなり強い。まぁ、たしかに加工するのがめんどい。そのめんどい分のコストをどこか考慮に入れての信仰なのだろう。
 個人的にそろそろ辞めて欲しいなと思うのは、紙もの神話である。システムから抽出した顧客データと、同じシステムからプリントアウトした顧客リストがあるとして、なぜか前者は信用ならんものとして扱われたりすることがあって驚いてしまう。同じデータベースからひっぱってきているのにも関わらず、なのだ。元が同じだから出てくるものも同じなんだけど、結局、それら顧客データを整理するために大量の紙と長時間の人の眼仕事が注ぎ込まれてしまう。またそういうときに限ってデータ入力時のヒューマンエラー対策はザルだったりするから、理不尽というか、社会は容赦がないのである。
 データのまま扱う不安は、わからなくは、ない。わからなくはないから、エクセルの計算式を読もうとする歩み寄りもちょっとはあっていいんじゃないか。確認すべきは入力と出力をつなぐプロセスじゃないか。プロセスが正しけりゃデータを流しこめばいいじゃないか。ないかないかっ。と、いうのはぼくの淡い期待であり、若気の至りに似た何か、だ。これについては半ばあきらめた。
 根拠っぽいものを積極的に使っていった方が、めんどくさくなくてよい。急がばまわれ。まわりたくはないけれど。

●◯。。。...

 要は不安なのだろうと思った。正しい根拠が根拠っぽくないから安心できないのである。ぐらぐらした、キリキリした、そわそわした、その気持ちはどこから出てくるのか。そこが問題になっているような気がするのだ。
 では、根拠っぽさは麻酔なのだろうか。本当にそういうものなのだろうか。

 

m(_ _)m

 

 

論理トレーニング101題

論理トレーニング101題

 

 

誕生日を迎えたから、考えていることなどを書き散らしてみる。

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 誕生日を迎えて、さんじゅうとちょっとちょっとになりました。24歳ぐらいのときには28歳ぐらいと間違われたものですが、いつの間にやら間違われた年齢を飛び越えて、最近では「大学生さん?」とオバチャン方が間違えてくれます。よいお世辞には、えへへと笑えるぐらいには大人になりました。たぶん。
 このところ、ライスワークとライフワークの切り分けが自分の中で進んでいます。仕事は仕事で、活動は活動で、それらが重なる気配もなく、重ねられるという兆しも見えず、そのことが悲しくもあって、それでもまぁいいかと気楽でもあるような感じです。さらには、ライフワークと考えていることの距離も遠くなってきているようで、実践と思考の行ったり来たりもできないまま、行動意欲だけが減退してきています。自分自身が関わっている活動の意義さえも見い出せぬのは、ちょいとどうしたものかと考えものだったりもします。楽しけりゃいいんですけど、どうも芯がないと落ち着かない性分なのでしょう。

●◯。。。...

 アンニュイな気分を抱えつつ、わたしの頭はスタイルや姿勢や感じや文体といったものに向かっています。人は見た目が9割であり、箱が中身であるようなもので、WhatよりもHowに興味が向かいます。やはりわたしには、「戦争反対!」と絶叫しながらプラカードを掲げて国会に押し寄せる群衆が矛盾しているように見えるのです。ときにはそういった勢いが大切なことも理解できる一方で、狂気は狂気を呼び寄せることにもう少し敏感になった方がいいだろうし、市民活動ならば、それこそ大きな物語と同じ作法で戦っちゃいけないのではないかと思うのです。
 行為に対しては必ず姿勢があります。体がある。同じ商品を同じ営業トークで売るにしても、感じのいい人と悪い人が出てしまうように、そこには言葉が立ち入れないような個性とかスタイルがあるのでしょう。写真で言えば、シズル感のようなものです。広告業界用語ながら、なるほど、シズル写真とシズらない写真がやっぱりある。これはいいなぁ、ヨダレが出ちゃうなぁ、身体が反応しちゃうなぁ、おもしろそうだなぁ、というような写真は、構図だとか、ピントだとか、ホワイトバランスだとか、彩度だとか、そういった次元を飛び越えた名人芸みたいなもので成り立っているように思えてならないのです。鉄道写真家の中井精也さんが「後ろにラブホテル建ってちゃダメだよね」と言ってたのをよくおぼえていて、おそらくそういったほぼスピリチュアルに思えるHowが姿勢であって感じに影響するのではないかと、そんなことを考え、ではそこにアクセスするためにはどこから手をつければとぐるぐるさまよっています。

●◯。。。...

 今、ひとつヒントになりそうなのは「みなし」です。『貨幣の思想史』を読んでから、この「みなし」という言葉の周辺でわっさわっさと何かが組み上がりました。

meta-kimura.hatenablog.com

 そうか、価値というものは、貨幣を価値とみなすことで定義づけられたとも考えられるのか、などという、そんなのお金は信用だって知ったときに気づいとけよ的な、大変に今さら過ぎることに気付いて、そこから、世界は自然層と社会層の2階建て構造で、その2層を「みなし」とか「見立て」が結んでいるのではないか、とゆー夢想にまで膨れ上がりました。インターネットが世に広まる遥か以前から、世界はヴァーチャルな構造で出来上がっていたのかもしれない。と、ぐるぐる巡っていたら『擬 MODOKI: 「世」あるいは別様の可能性』が出たと聞いて、これは読まなければリストに追加されました。

擬 MODOKI: 「世」あるいは別様の可能性

擬 MODOKI: 「世」あるいは別様の可能性

 

 形式よりも中身を、肩書きよりも能力を、という流れには少し待ったをかけなければならないのかもしれません。肩書きも実力のうちに入るだろうし、肩書きが実力の結構な割合を占めるということもあるのでしょう。社長は人間ですけども、社長とみなし、みなされることで、コトが動いていきます。このことを、わたしはもっと重く認めなければならないようです。

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 たぶん、こんなことをぐっちゃぐっちゃと書き散らしながらわたしが対抗しようとしているのは、今風原理主義とセカイワカレ現象の2つです。
 今風原理主義ってのは、ナマナマした話です。社会を構成するみなしの浮遊感に耐えきれないからか、本物こそが至高、すっぴんが一番キレイで、無農薬が全く美味しいというナマナマ主義がちらほらと目につきます。みなしの否定です。擬態を剥ごうとしているように見える。これ系の話にはある程度まで共感するものの、どうもわたしの肌には合わないようで、どこかにナマナマの悪魔みたいなものが潜んでいる気がしてならないのです。社会的な生き物である限り、みなしからは逃れられないものとした方が健全ではないかと、漠然と考えています。
 もうひとつは、言葉の通じない相手が出てきているということです。合理ってのは、これもあんまり好きじゃないんですけども、それでも「理」はわかるし共有していないとやっていけないところがあります。ところが、どうも話の筋が通らない人やそもそも全く違った「理」のセカイに生きている人がいるようで、それこそ信じられない事例が身のまわりに起きることもあるし、そんな話を聞き、目にすることもちょくちょくあります。それらがモンスターやクレーマーやクラッシャー上司や困ったちゃんになって、日常のストレス度合いの大半を担っているのではないか。個人的に豆腐メンタルなこともあって、これが大問題なのです。良識ある人を増やすというか、セカイを同じくするなり、何らかの手段でもって別世界へと離れてしまわないように、別世界との交渉ができるようにしなければなりません。厳密に考えればどこまでいっても個々人は別世界の住人なんですけどね。

 てなことで、誕生日を迎えました。どういうことになるのであれ、わたしはわたしの役目を勝手に担っていくのだろうなと、他人事みたいに思っています。

 

m(_ _)m