meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

ポスト・トゥルースとかオルタナティブ・ファクトとは健全に付き合いたい。

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 事実が揺らいでいるらしい。フェイクニュースなんて言葉も聞こえてきたが、おっと目を引いたのは「ポスト・トゥルース」と「オルタナティブ・ファクト」だった。なんじゃこりゃ。直訳すると「次の真実」と「代替事実」だろうか。真実がひとつでない。事実が多様である。ふむふむ、やっとそこに気付いたかいワトソンくん、とか言いたくなった。なんか意味が違う気がするけど、言いたくなった。
 ちょいとググってみた。どうやら為政者によって都合よく使われている言葉みたいである。至極残念である。どちらも「ポスト真実の政治」と「もう一つの事実」という項目でウィキペディア先生に掲載されているので、興味がある方はそちらを読んでみるといいと思う。あんまり日本では聞かない言葉だけど、ぼくがニュースとかに触れてないから聞いてないだけで結構みんな知ってたりしてて、実はニッポンのジョーシキなのかもしれないけれどけれど、なんかイギリスとかアメリカとかで注目のキーワードらしい。
 概要に「ポスト真実の政治における論証は、政策の詳細は欠けており、断言を繰り返し、事実に基づく意見・反論は無視される。伝統的な議論とは異なっており、事実が歪められ、二次的な重要性を与えられている」なんて書かれるぐらいには混乱しているようで、つまりはプロパガンダみたいなもんだろう、そうなんだろうと一旦飲み込んだ。
 デマとかフェイクニュースとか、そんなに問題になってるのねぇ、対岸の火事だねぇ、ってな感覚である。ちょいとググればニュースが出てくるし、ニュースが出てくればそれに対するコメントにも目がいくもんだし、ニュースの提供元はひとつでもない。昔に比べれば判断の材料はぐんと増えている。東日本大震災のときに流行ったチェーンメールだって、ぼくのところにはひとつも来なかった。ひと呼吸おけばそんなのに騙されるわけがないのだ。リテラシーってのはそこまで落ちたのだろうか。
 ただし、チェーンメールが来なかったことに関しては、ぼくの友達の少なさが影響しているだろうと思われる。それは別の話である。

●◯。。。...

 違うのだ。事実というものを動かざる証拠として1つにまとめてしまうことには抗いたいし、抗ってもいいと思うのだけれども、それは自分に都合のいい事実を選び取るようなことではないのである。『1984年』ぶって、二重思考で事実を読み替えてしまうようなことでもない。Alternativeと言いつつ、Selectiveになっているようで、それは残念だなと思う。
 1つの事実を盲目的に信じることなかれ、というのが現代のスタイルであろう。事実であったとしても、それはAさんには甲と見えて、Bさんには乙と見えているかもしれない。それぞれにとって事実(甲)と事実(乙)であったとするなら、それはどちらも事実である。ただし、Aさんは事実(甲)に、Bさんは事実(乙)に一定の疑問を持たなくてはならない。それらの事実を、客観的な、絶対的なものにしてしまってはいけないのだ。その上で、両者がコミュニケーションするときには、甲乙、互いの事実を交換するようにして、お互いの土俵に首をつっこむようにして話し合えるのが理想なのだ。
 だから、事実の権力が揺らいだことについては、ぼくはちょっと歓迎したい。動かぬ証拠というものの必要性はわかるし、重要性も痛烈に感じるけども、あまり簡単に事実だからと信じてしまうのもよろしくないように思われる。コミュニケーションしようとする双方の力を、外部にある事実が一手に引き受けてしまっている。それぞれの背負うべき苦労を奪っているような気さえする。
 『めぞん一刻』の五代くんを思い出して欲しい。音無響子さんの亡き夫、惣一郎さんの墓の前でこう言うではないか。「初めて会った日から響子さんの中にあなたがいて、そんな響子さんをおれは好きになった。だから、あなたもひっくるめて響子さんをもらいます」と。なんか全然違う気もするけど、事実も感情も、客観も主観も、身体も性格も、ぜんぶまとめてひっくるめるというのがすんばらしいのである。なんか全然違う話のような気もするけど、実は最初っから土台ごと引き受けてるってことに気づかせてくれるのがすんごいのである。

●◯。。。...

 五代くんに比べれば、オルタナティブ・ファクトは大変にセルフィッシュ・ファクトな感じである。そんなことでは、まだまだ音無さんを振り向かせられない。自陣に籠もっても打開はされぬ。あっち側を想定すること。ここを離れてあっちに向かおうとすること。そういう姿勢を大切にしておきたいなと、自戒を込めて思う。

 

 

一九八四年 (ハヤカワepi文庫)

一九八四年 (ハヤカワepi文庫)

 

meta-kimura.hatenablog.com

 

『人間にとって科学とはなにか』科学という宗教

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 キリスト教イスラム教、仏教。世界三大宗教に、もうひとつを加えるとしたら、何にするだろうか。人口が多そうだから、ヒンドゥー教か。いや、ここは変化球で考えた方がおもしろい。宗教の意味を広げて捉える。信仰と思えば、民主主義だってひとつの宗教のように見えてくる。となると白人主義なんてのも大きい勢力だろう。合理主義や、ビジネスなんてのも言ってみればひとつの宗教だ。
 と、すれば。4つ目の大宗教には「科学」を加えてみたくなる。論理と言ってもいいかもしれない。1に1を加えれば2になる。売上から費用を引くと利益が残る。酒を飲みたいから、飲む。全くもって当然のことだけれど、その筋道は本当にそうなっているのか。それは正しいのか、どうか。実は自然現象を説明してきたその科学的なロジックに沿うように、わたしたちは信じ込み、そのOSの上で生きているのではないだろうか。

●◯。。。...

 『人間にとって科学とは何か』を読んだ。今年の秋に、近畿大学のビブリオシアターで見つけてから、ずっと気になっていた本だった。科学の考え方を絶対視しないことを、科学相対主義というらしい。科学の大家たる湯川秀樹も、梅棹忠夫も、徹底的な科学相対主義者だったようだ。自分自身がやっていることの土台を積極的に揺るがし、ゆらゆらした中で、それでも突き進んでいった科学者2人の対談本である。わたしの知識が追っつかないところが多々あるものの、それはそれとして横に置いておいて、楽しんで読んでいける本だった。

 考えてみれば、「科学」を英語で言うと「Science」である。サイエンスと言えば、理系のイメージが浮かぶ湯川秀樹は物理学者であるし、梅棹忠夫も出身は理学部である。世に言う「科学的」には理系的な思考、これこれという条件であれば「AならばB」が何度も再現できる、というようなロジカルな印象がある。
 実験して、法則を見つけ出す。論理を組み立てて、法則を予測する。簡単に言ってしまえば、そういうことだ。これはとてもわかりやすい。
 一方で、最近おろそかにされていたりする人文科学というのはわかりにくい。試しにGoogle翻訳で英語にしてみたら「Humanities」と出てきた。サイエンスではないのである。本の中でも、人文はなにをどうやっとるぞ、的な話題が少しだけ出てくる。その疑問に対し、梅棹忠夫が「歴史」と「実証」と応えていたのがおもしろかった。
 歴史は文献である。文献に書いてあることが正しい。新たな文献が出てくると、新しい発見がある。文献に限らなくても、過去の出来事に関しての証拠が大切で、それらの証拠をもとに解釈を組み立てていく。この方法は確かに納得がいくもので、正しい。
 もうひとつの実証は、たぶん社会実験と考えるのがわかりやすいと思われる。何らかの理論や予測があって、それをもとに調査したり、仕掛けたりして本当にその理論や予測が正しいのかを明らかにしていく。これもなるほどと納得できる正しさがある。これらはつまり「科学的」なのだと思う。
 だが、そればかりが人間ではない。文学的なアプローチもあれば、芸術学的なアプローチもあるはずである。人間の認識を、思考を、感情を、心理学や脳科学ばかりに担わせてしまっていいのだろうかという疑問は、僕の中にもずっとあった。では、文学的な方法とは何ぞや。人文知とは何ぞや。この方法が、見えないのである。わからないのである。『私の個人主義』を思い出してしまう。

 私は大学で英文学という専門をやりました。その英文学というものはどんなものかとお尋ねになるかも知れませんが、それを三年専攻した私にも何が何だかまあ夢中だったのです。その頃はジクソンという人が教師でした。私はその先生の前で詩を読ませられたり文章を読ませられたり、作文を作って、冠詞が落ちていると云って叱しかられたり、発音が間違っていると怒られたりしました。試験にはウォーズウォースは何年に生れて何年に死んだとか、シェクスピヤのフォリオは幾通りあるかとか、あるいはスコットの書いた作物を年代順に並ならべてみろとかいう問題ばかり出たのです。年の若いあなた方にもほぼ想像ができるでしょう、はたしてこれが英文学かどうだかという事が。英文学はしばらく措いて第一文学とはどういうものだか、これではとうてい解わかるはずがありません。 (『私の個人主義』 夏目漱石

●◯。。。...

 科学は常に仮説なので、科学は科学を疑う。けれども、科学が科学である限り、そのOS上からは抜け出せないようにも思う。「合理性への信頼とその限界」。この問題をどうやって乗り越えるのかというところには、文系が出しゃばっていっていいのかもしれない。
 東京大学学際情報学府の佐倉統先生が書いたまえがきがとってもいい読書案内になっている。あとがきから読んでいるようなもので、いきなりどっきり結論どーんな感じだけど、お陰で旨みが増した。ごちそうさまでした。

 


m(_ _)m

 

 

J-46 人間にとって科学とはなにか (中公クラシックス)

J-46 人間にとって科学とはなにか (中公クラシックス)