meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

無理に書くもんじゃない。

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 ブログってのは無理矢理に書くもんじゃないなと思っていても、あんまりにも書いていないと、そろそろどうだい、書いた方がいいんじゃないかい、という気になってくる。書きたいことがないわけでもないし、書きたいなぁ、ってなことを感じてもいるんだけども、どうにも腰が重くなって、重くなって、重くなった挙句にエイヤッの勢いで無理くり何かしらアップしてしまう。そうやって、くちゃくちゃな文章の残骸ができあがる。
 ざらっと読んで、自己嫌悪に陥り、文才のなさを恨み、なんで公開したのかどうかもわからなくなって、この煮え湯が修行なのだと飲み込んで、熱さを忘れようとして、結局、また、パソコンに向かって駄文をつくっている。一体全体、文章の上達とは何なのか、というか、どうしたらスラスラと書けるようになるのか、何度も何度も繰り返されてきた疑問が、未だに鮮度を保ったまま、頭の中を駆けている。

●◯。。。...

 書きたいことがあるときと、ないときがある。ないときに書く文章はとにかく息苦しい。つ、つ、つ、と行き詰まって、リズムが悪い。ちょくちょく手が止まる。最終的には結論がめらめらになる。誰に向かって、何を言っているのかが不鮮明であるし、それ、書かなくていいんでない、って気持ちにもなる。昨日のエントリーなんかがまさにそれで、あげたはいいけど、新鮮な感情も感動も考えもない。ぴちぴちしていない。もっと書きようはあったかもしれないけど、こんな風にしか書けなかったよな、とも思う。

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 書きたいことがあんまりなかったのだ。少しできた時間に何か書こうと無理に起動した頭が、明確なものを何もつかめずに、ただただ、読んだ本という実体に頼って、ちぐはぐとした文章を作り出した。そんなもん見せるなよ、と言われそうで、更新したような気にもならず、でも、手元にあっても仕方ないからアップだけして、そっとしておいた。
 書きたいことがあるときは、さすがにそれを目がけて進むから文章は捗る。もともと構成なんかを考える性質ではないから、あっちへ行ったり、こっちへ来たりと迷走はするのだけれど、軸があるとそれなりに読めるような形にはなってくれる。それに、書きながら考えが練られていくことも多いから、出力してるんだか入力してるんだかわからないようなこともよく起こる。こういうときは、自己満足感が高い。ブログとしては、とてもいい感じなのだと思う。
 まれに、書かなきゃならんという使命感を持たされることもあって、そんなときはとってもデトックスである。今、このタイミングで、これを書いてかなければっ、これは読んでもらわねばっ、という勢いに任せてダーッと書けてしまう。最たる例が以下のやつで、書いたあとに、謎の螺旋集団から「この世の真実に気がついてしまったな」とか言われて抹殺されるんじゃないかとか思った。まったくの杞憂だった。

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  身体から毒素が抜けていくような、すーっと脱力するような感触は、わりと気持ちがいい。本来なら、こんな書き方をすべきなのだろうなぁ、と思う反面、書きたいことと書くべきことが一致することなんてそんなにないし、むしろ、書きたいこと自体がそんなにたくさんあるわけじゃないんだから、ブログってメディアには馴染まないんじゃないかとかぐちぐち考えてしまうのが、ぼくの悪い癖なんだろう。

●◯。。。...

 書きながら、就職とかのときに言われるWill、Can、Needってのを思い出した。したいこと、やれること、求められていること、の3つの領域が重なったところがとっても良い職業、ってやつ。書きたいこと、(いろんな事情も考慮して)書けること、読みたいと思われてることが重なれば、まぁ、価値は高いんだろう。
 でも、そういうのは嫌だな。自己満足中二病ブログとしては、もっと実験的でいい。実験の残骸なら、甘んじて受け入れよう。人の目を気にし過ぎることなく、それでいてちょっと気にしていたい。

 

m(_ _)m

 

 

伝わる・揺さぶる!文章を書く (PHP新書)

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『福沢諭吉家族論集』盛大なる明治の男性バッシング

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 今年のBOOK在月という一箱古本市で、なぜか手元に転がりこんできた。キリのいい値段にするために選んだ「もう一冊」である。ざらーっと並んだ古本の中で、まぁ、どれか選ぶといったら、これだろうかというぐらいのテンションで選んだ。読むかどうかは、わからないと思ったし、読めるかどうかもわからんなと思った本だった。
 まぁ、しかし。言うても福沢諭吉先生である。明治の文語文と言えど、読めなくはない。むしろ、わたしにとっては村上春樹よりもずっとか読みやすい。福沢諭吉の文章はリズミカルで美しく、簡単で気持ちがいいのだ。進歩的で啓蒙的で、ゆえに庶民にも読みやすいように書かれている。繰り返される比喩が少々くどいくらいである。
 じりじりと、それでいてぐいぐいと読み進めていき、いつの間にか最後のページに辿り着いていた。ぷっはーっ、と読み切ったときの達成感は、なぜだか妙に高い。読んでるときは息を止めていたような感覚にもなるのは、なんだろう。

●◯。。。...

 家族論集とは書いてあるものの、内容は女性論である。女性の地位、身分、扱われ方がやたらめったらに低く、男性が大変に偉ぶっている。こんな日本では西洋に太刀打ちできぬ。生まれつき男女は平等ならん。女性の地位を向上せしめ、高すぎる男性の権力を低め、もって平らな関係にせん。平らにならして、女性も家を出てさまざまな人と交際すべし。いや、交際と言っても、肉体的なあれやこれやじゃなくって、精神的な交際のことでして、そうやって女性も活動することによってですな、日本という国の力を高めていかねばならんのです、うんぬん。
 というようなわけで、強烈に男性バッシングをしていて、なんだかそれがまた微笑ましいようにも思えてしまう。こういう歴史ものというか、当時の価値観の中で書かれたことを楽しむ系の文章は、今の常識との変化とか、かけ離れ方とか、意外とおんなじだったりする共通点とかがメインディッシュだったりするのだ。福沢諭吉が日本婦人論なんて書いたりしたから、奥さんに前々からねだられていた着物買わなきゃならないハメになったじゃないか、なんて話もあるもので、こういう洒落のセンスは今も昔も変わらんもんなのかもなぁ、なんて眺めているのである。「尻に敷かれた旦那」も絶対にいただろう。

●◯。。。...

 ともあれ、世は明治であった。文明は進むものと考えられていた。福沢諭吉はさらに文明が進んで進んで、極まれば、社会に法律も制度もいらなくなるだろうと考えていた。数千年とか数万年後には、みんながみんな賢くなっていて、高い徳を持っていて、誰もが他者を思いやる。そんな世の中になっているハズである。その理想に向かって世界は進む。その途上が今なのであって、そろそろ男尊女卑は捨てなさい、というようなことだった。
 それから100年以上が過ぎて、わたしは文明が一方通行に進歩するとは思っていない。では、今は何の途上なのだろうか。わたしは、どこに向かおうとしていいのだろうか。

 

m(_ _)m

 

 

福沢諭吉家族論集 (岩波文庫)

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