meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

人生はおもしろい。

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 人生はおもしろい。こんな文章を、手汗をかきながら、心の底から湧いてくる焦燥感を必死で抑えながら、そしてどこかで自分をおもしろがりながら書いているのだから、やっぱり人生というのはおもしろいものなのだなと、思う。
 予想外の出来事に、ままならないことに、この2年ほどは立ち向かって来なかった。道は決して平坦ではなかったけども、時間はそれなりに流れていて、そこにぷかーっと浮かぶようにして過ごせばよかったのだ。庭の木を切ったり、ビワの皮を必死で剥いたり、酒粕をお茶パックに詰め込んでお風呂に投入したり、断熱材を探してホームセンターをまわったりすることが、日常の要請であり、楽しみであり、暮らしであった。
 今まで、1年をこれほど短く感じたことはなかったかもしれない。なるほど、こういう世界にみんなは住んでいたのだな、などと納得したりもした。今年の1月にやることと、来年の1月にやることが、それほど大きく変わることはない。周期とリズムがある。想定は余裕を生む。組織としての、大きな共同体としての崩壊の音は遠くにあって、耳にしたところで、基盤は揺るがない。そう信じ切っている。これはこれで、よい世界なのだろうと思えていた。

 4月の終わりには今の仕事がなくなることは知っていた。モジモジ、ウジウジして転職情報なんぞを眺めていただけのぼくに、解約通告書が届いた。

●◯。。。...

 5月末までに今の住処を退去をせねばならない。借家であるということは、そういうことである。むしろ、半年も前に知らせてくれたのだから、良心的だろう。大家さんの事情によるもので、そこになんの問題もないし、つっかかりもない。ただ、住んでいる人間からすれば、びっくりである。動揺である。震撼、、、とまではいかないけども、不安である。
 年末の仕事帰り、不動産屋さんから届いた薄っぺらい封書が重々しくのしかかってきた。そうかぁ、というため息がひとつ。あとから笑いがこみあげてくる。まったくどうしてこうなのだろうと、呆れたような、一方で、どこかしらにあった鎖を断ち切られたような、捉えどころのない、懐かしい感覚だった。ひとり、スーツも脱がず、ストーブも付け忘れたままニヤリと笑った。2012年と同じじゃないか。これはネタになる。

●◯。。。...

 遡ること5年ぐらい前、2012年の春、4月末に職と住を同時に失ってしまうという危機に直面していた。そういえばあのときも、起業支援ネットで担当していた事業がそれなりにひと段落を時期を迎えていて、秋から冬にかけての時間の流れが早いなと感じていたときだった。
 2012年の4月1日に作成したと思われるパワポ資料では、スラムダンクの仙道が「まだあわてるような時間じゃない」と言っている。まぁ、馬鹿である。当時、シェアハウスというかルームシェアで一緒に住んでいたもちさんには「あわてろよ!」と言われたような気もする。実際、あわてた方がよかったのかどうかは、今でもわからない。
 その頃は、なんだか名古屋に友達がいて、家も職も友達だよりで転がりこむようにして、実際、転がりこんだ。引っ越しにはなぜか東京から、しかもハードワーク明けの助っ人が来た。その頃、ご近所さんだったF氏がものすごい手際で段ボールにぼくの荷物を詰め込んでしまい、あれよあれよという間に新しい生活が築かれてしまったのだった(全く関係ない話だが、あの手際で動けるF氏の自宅がなぜモノで溢れかえってしまうのかが本当に不思議である)。

●◯。。。...

 あの頃との違いは大きい。ぼくはもう若くはないし、ひとりで動きたいとも思っていない。背中を押してもらった感じやね、と言われて、まぁ、そういうことなのだろうなと頷いた。松江は好きだし、ここで仕事を見つけて住んでいくことに何らの不満はないけれど、今の場所にこだわっている場合ではなくなった。視野を広げようということで、一致した。仕事次第で動くのも、残るのも、それはそれでよし、なのだ。

 にしても、である。職住問題が一気に噴出するってのは勘弁して欲しい。年始早々から忙しくなる。年度末年度始めなんて、もともと繁忙期も繁忙期なのだ。こういうことはおもしろいように重なる。退去の前にお客を招きたくもあるけども、それもとにもかくにも次が決まってからの話だろう。

 動かねばならぬ。
 いい話があれば教えてください。(←切実)

 

m(_ _)m

 

 

人間の大地 (光文社古典新訳文庫)

人間の大地 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 

 

無理に書くもんじゃない。

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 ブログってのは無理矢理に書くもんじゃないなと思っていても、あんまりにも書いていないと、そろそろどうだい、書いた方がいいんじゃないかい、という気になってくる。書きたいことがないわけでもないし、書きたいなぁ、ってなことを感じてもいるんだけども、どうにも腰が重くなって、重くなって、重くなった挙句にエイヤッの勢いで無理くり何かしらアップしてしまう。そうやって、くちゃくちゃな文章の残骸ができあがる。
 ざらっと読んで、自己嫌悪に陥り、文才のなさを恨み、なんで公開したのかどうかもわからなくなって、この煮え湯が修行なのだと飲み込んで、熱さを忘れようとして、結局、また、パソコンに向かって駄文をつくっている。一体全体、文章の上達とは何なのか、というか、どうしたらスラスラと書けるようになるのか、何度も何度も繰り返されてきた疑問が、未だに鮮度を保ったまま、頭の中を駆けている。

●◯。。。...

 書きたいことがあるときと、ないときがある。ないときに書く文章はとにかく息苦しい。つ、つ、つ、と行き詰まって、リズムが悪い。ちょくちょく手が止まる。最終的には結論がめらめらになる。誰に向かって、何を言っているのかが不鮮明であるし、それ、書かなくていいんでない、って気持ちにもなる。昨日のエントリーなんかがまさにそれで、あげたはいいけど、新鮮な感情も感動も考えもない。ぴちぴちしていない。もっと書きようはあったかもしれないけど、こんな風にしか書けなかったよな、とも思う。

meta-kimura.hatenablog.com
 書きたいことがあんまりなかったのだ。少しできた時間に何か書こうと無理に起動した頭が、明確なものを何もつかめずに、ただただ、読んだ本という実体に頼って、ちぐはぐとした文章を作り出した。そんなもん見せるなよ、と言われそうで、更新したような気にもならず、でも、手元にあっても仕方ないからアップだけして、そっとしておいた。
 書きたいことがあるときは、さすがにそれを目がけて進むから文章は捗る。もともと構成なんかを考える性質ではないから、あっちへ行ったり、こっちへ来たりと迷走はするのだけれど、軸があるとそれなりに読めるような形にはなってくれる。それに、書きながら考えが練られていくことも多いから、出力してるんだか入力してるんだかわからないようなこともよく起こる。こういうときは、自己満足感が高い。ブログとしては、とてもいい感じなのだと思う。
 まれに、書かなきゃならんという使命感を持たされることもあって、そんなときはとってもデトックスである。今、このタイミングで、これを書いてかなければっ、これは読んでもらわねばっ、という勢いに任せてダーッと書けてしまう。最たる例が以下のやつで、書いたあとに、謎の螺旋集団から「この世の真実に気がついてしまったな」とか言われて抹殺されるんじゃないかとか思った。まったくの杞憂だった。

meta-kimura.hatenablog.com

  身体から毒素が抜けていくような、すーっと脱力するような感触は、わりと気持ちがいい。本来なら、こんな書き方をすべきなのだろうなぁ、と思う反面、書きたいことと書くべきことが一致することなんてそんなにないし、むしろ、書きたいこと自体がそんなにたくさんあるわけじゃないんだから、ブログってメディアには馴染まないんじゃないかとかぐちぐち考えてしまうのが、ぼくの悪い癖なんだろう。

●◯。。。...

 書きながら、就職とかのときに言われるWill、Can、Needってのを思い出した。したいこと、やれること、求められていること、の3つの領域が重なったところがとっても良い職業、ってやつ。書きたいこと、(いろんな事情も考慮して)書けること、読みたいと思われてることが重なれば、まぁ、価値は高いんだろう。
 でも、そういうのは嫌だな。自己満足中二病ブログとしては、もっと実験的でいい。実験の残骸なら、甘んじて受け入れよう。人の目を気にし過ぎることなく、それでいてちょっと気にしていたい。

 

m(_ _)m

 

 

伝わる・揺さぶる!文章を書く (PHP新書)

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