meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』と、申請ができない学生たち

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 春が近づいてきた。年度末である。少しずつあたたかくなるこの季節。昔は秋がいちばん好きだったのだが、ここ数年、一気に春の株が上がっている。寒さが緩む。日が差す。世界が明るくなる。とても気持ちがいい。

●◯。。。...

 さて。そんな季節に恒例となっている仕事がある。卒業証明書の事前申請だ。この春に大学を去っていく学生たちが、卒業証明書だとか成績証明書だとかの申請をする。ただ、まだ卒業したわけではないから、「事前」に申請するということである。これが毎年、結構な数になる。わりと面倒な処理が必要で、それなりの大仕事になってしまうものだ。
 初めて担当したのは3年前で、要領が掴めていなくてどえらくめんどい思いをした。なんせめちゃくちゃ「申請ミス」が多いのだ。そのフォローのために100枚以上封筒を手書きするという作業をしなくてはならなかった。これではマズい。こんなことで残業なんぞしたくない。手続きを見直し、申請の仕方がわかるようにして、次の年には手書きする封筒が10枚にも満たなくなった。よしよし。まずまずこれでいいなと、思っていた。

 ところが、である。今年も申請ミスが出る。ミスの件数、発生率については去年とほとんど変わりがないように感じるが、どうも、件数が少なくなった分、ミスの内容が目立って見えてしまうようである。どうしたらこんなミスができるのだろうか。そもそも申請する気があるのか、これは。ちゃんと書いてあるのになぁ。ちゃんと、読めよ。

●◯。。。...

 ここで『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』の話がポンッと頭に飛び出してきた。そうか。読んでないんじゃない。読めないのかもしれない。ただし、大学を卒業しようとする学生と、大学院を修了しようとする学生である。子どもたち、というにはだいぶと大人だろう、とも思ってしまう。
 肌感覚では、軽微なミスが1割程度発生する。書き直しが必要なミスは全体の0.5割弱になる。数は少ない。少ないけども、処理する側からすれば勘弁して欲しいと思えるインパクトになっている。いや、まじで勘弁して欲しい。ご不明な点があるなら、スタッフに聞いて欲しい(心の叫び)。
 そういった学生は、本当に読めないのかもしれない。読めないのであれば、これは由々しき事態である。ちょっと将来を心配する。確定申告でもないし、年末調整でもない。細かい字がいっぱいに並んでいるわけでもない。それでも、申請書の裏に書いてあることができないとしたら。背筋に寒気が走る。
 著者の指摘通り、社会が成り立たなくなるだろう。

●◯。。。...

 読めない人がいる。この事実を明らかにしたのがリーディングスキルテストである。リーディングスキルテストについては、以下に具体例と回答率があがっているので、興味のある人は見てみるといいと思う。

http://www.nii.ac.jp/userimg/press_20160726-2.pdf

 検索してみたら、教育のための科学研究所のホームページも出てきた。来年度からリーディングスキルテストの団体受検ができるようになるらしい。ちょっとみんなで集まって受けてみたい。

www.s4e.jp

 内容はというと、読解力というよりもむしろ、論理力のような気もするものだった。論理パズルほど考えるわけではないもの。答えが書いてあるので、あとは間違えなければ、ケアレスミスさえしなければ、間違えようのないもの。そんな印象である。
 この点、野矢茂樹さんが『論理トレーニング』から『国語ゼミ』に行き着いたルートと似ている。読みの多様さ、豊かさに触れる方向ではない。「商品を買ったら、お金を払う」ぐらいの社会的当然を、「りんごを1つ持っていて、新たに2つもらったら、持っているりんごは3つになる」ぐらいの論理的正確性を求めていくような方向なのだろう。言ってしまえば、常識、のようなものかもしれない。
 ぼくもそれぐらいの常識スキルは持っていて欲しいと思う人種だ。トンデモ発想、トッピな論理も好きだけれども、あまりにも話が合わなくて困ってしまうというのは辞めて欲しい。スタッフがみんな出払っていて、居残ったひとりが電話対応してるときに窓口からオイコラ言われても困る。対応できない状況であることは、見りゃーわかる。

 みんながリーディングスキルを身につけた社会は、たぶん、ぼくらにとって楽な社会なのではないかと思う。読むことは、相手のロジックをトレースすることでもあるからだ。道筋を追えることは、いわゆる相互理解にも役に立つ。多様な価値観、世界観が共存するための必須スキルとまで言っていいかもしれない。
 ただ、楽でいいのか、とも思う。話し合えないところをどうにかつなげる努力が、コミュニケーションではなかったか。通じる前提を持たないことこそを、大切にしていきたいのではなかったか。話し合えない人と、どうやって話そうか。そんな壁に立ち向かっていくところに、人間のクリエイティビティみたいなもんがあったような気がする。要はマゾっ気である。
 持つべきは、スキルではなくて、姿勢なのだろう。だから、わたしは今年も、くっそー、なんでこんな申請もできんのじゃー、と愚痴りながら、申請のプロセスを見直すのである。あちらの世界に足を踏み入れるための方策を考えるのである。それはたぶん、リーディングスキルテストからリーディングスキルトレーニングを生み出していくようなことと同じなのだ。

●◯。。。...

 ところで、ぼくはちゃんと読めてるんだろうか。読めるってなんだろう。

 

m(_ _)m

 

 

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

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論理トレーニング101題

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大人のための国語ゼミ

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それは、人の問題か?

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 年末から、ずっとこの問題が尾を引いている。ソーシャルな組織におけるマネジメントの崩壊。それがなぜ起こったのか。なぜ悲劇的状況にまでなってしまったのか。近しい組織で起こった問題でもあり、同じような経験をしてきたつもりもありで、就職活動の合間にあちこちで起こっている議論をばつまみ食いしては、うーんと唸っている。労務管理、理事会の機能、それらの問題は確かにあっただろう。
 ただ、やはり、そこが本質とは思えない。では、組織の代表の人間性の問題なのか。いや、そんなことを言っていいのか。どうか。

●◯。。。...

 罪を憎んで、人を憎まず。この言葉がまず思い浮かぶ。福祉とか心理とかその辺の用語で言えば、問題の外在化、である。人と問題は、まず引き離す。妖怪ウォッチ的な考え方であって、わたしが朝起きれないのは妖怪朝眠い魔人の仕業と考える。こうみなすことで、では魔人を倒すにはどうすっぺか?という議論ができるというやつだ。誰もわたしが悪いなんて、ぐーたらだなんて、寝過ぎだなんて、責められなくなる。
 だが、次にはこの言葉が出てきた。「分けて、分けない」だ。ここが今回の騒動では、明示的に言及されていないような気がする。たぶん、おそらく、わたしが見た限りでは。石黒さんが以下の記事で間接的に書いてたけど。

 問題を外在化する。外在化したけれども、では、そいつとは無関係でいられるかというと、そうではないのだ。友達になるなら話しかけないといけないし、ぶっ倒すなら殴りにいかなきゃならない。分けた後は、もう一回、「分けない」にする必要がある。問題との関係を立ち上げることで、アイダができる。そこに取り組めるかどうか、なのだろう。
 ややこしいことに、大抵の問題は人と人の間に起こるので、誰かひとりに責があるものとしても捉えられない。コミュニケーションは双方の協力によって成立する。どちらか一方を責められるものではない。妖怪は必ず間に生まれるのだ。だから、関わる人たち全員がその妖怪と無関係ではいられない。その妖怪を放棄したときが、関係崩壊のときなのだ。

●◯。。。...

 わたしは今までにいくつかの放棄をしてきた。妖怪にアプローチするのにだって、体力がいるし、精神力もいる。わたしの小さな容量は、スグにパンクしてしまう。コミュニケーションの相手が、間にいる妖怪に気づいているかどうかも問題である。妖怪は、大抵の場合、醜い。見たくないものなのだ。
 その自覚は、あるだろうか。妖怪を生み出した、自分の欲望に気づいているだろうか。誰が英雄になりたかったか。誰が守られたかったのか。その牙を鋭くする必要は、どこから生まれたのか。
 欲望というのは、なかなかにじゃじゃ馬である。どう手なづけていいやら、わたしも困っている。「資本主義の次は足るを知る主義じゃね?」と言っていた友人の言葉が、今は、とても遠いことがわかる。人間の業ってのは、デフォルメして、ゆるキャラにでもするのがいいのだろうけど、まだ、そこまでの巧さは持ち合わせていないようだ。

 ところで。人と問題は分けたがるのに、人と成功は分けたがらないのは不思議だなと思う。人間、意外とお人好しで、ご都合主義なのだろう。分けるも分けないも、因果同時みたいなものであって、気分次第で、自在なのだ。

 

m(_ _)m

 

 

 

鏡のなかの鏡―迷宮 (岩波現代文庫)

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