meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

電子書籍、大活躍する。

 

f:id:meta-kimura:20180714090017j:plain

 ここにきて、満を持して、電子書籍が大活躍である。
 岐阜から名古屋までの通勤が始まってスグに、電子書籍の価値が異様に高まった。なんて便利なのか。ライフスタイルが変わると、モノの価値も大きく変わるものらしい。
 松江に住んでいたときには電子書籍なんて必要がなかった。通勤はバスである。地方都市のバスがそんなに混み合うわけがない。いつも座席に座って、悠々と、ではないにしろ、ふつーに本を開くことができた。ふぃーっと座って、少し読み、気がつけば降りるバス停に着く。15分程度の通勤時間はとっても豊かであったが、本を読むには短かめであった。1冊の本をちびちびと読むのが、わたしの通勤であった。
 それが、である。引っ越してきてからの通勤は、電車とバスを乗り継いで、片道1時間と10分程かかるものになった。しかも、混んでいる。バスはまだ座れるけども、電車はよっぽど運がよくない限り、座れない。朝もはよから、満員電車である。東京みたいにぎゅーぎゅー潰されはしないが、パーソナルスペースは狭い。カバンは足元に置いて、片手でつり革を握り、バランスを保つ。さて、残りはもう片方の手だけである。
 はじめは文庫本を持っていった。薄い文庫本ならいけるかな、と思った。ハードカバーは論外になった。程なくして、物置に眠っていた電子書籍sonyのreaderを引っ張り出した。めっちゃ使えて、びっくりした。片手で持って、不自由なくページをめくることができる。そして、何より、軽い。読書量が一気に増えた。電車に乗っている30分ぐらいと、バスに乗っている20分ぐらいがわりと快適な読書時間になった。

●◯。。。...

 こうなると、sonyのreaderで続けていいのかどうか、不安になってくる。これから通勤時間が短くなる見込みがあるわけでもないから、基本的にはどんどこ電子書籍が増えていく想定になる。しかし、reader storeの品揃えは、お世辞にもいいとは言えない。そんでもって、電子書籍のデータって、汎用性がない。大変不便なことに、kindleのデータは、reader端末じゃ読めないのである。
 reader自体はとても軽くて好きなのだけど、だからといって、readerにがつがつ本を放り込むわけにはいかない。しばらく検討した結果、まぁ、kindleに乗り換えじゃな、という結論に達した。sonyには申し訳ないけど、やっぱり品揃えは多い方がいい。いつでも再読できそうな安定的な環境ってのも、大切なのである。

 実は通勤に使うことも含めてipad proを買おうと心に決めていた。なのに、ipad proを買う前に、kindleを買おう、今度のプライムデーのセールで買おう、と決心してしまった。
 今更、電子書籍装備を充実させようとするなんて、ほんとに思ってなかった。これは、予想外。家ではイマイチぱっとしなかった電子書籍が、ここにきて、その真価を発揮しはじめたのである。

 

 

m(_ _)m

 

 

Kindle Paperwhite、電子書籍リーダー、Wi-Fi 、ブラック

Kindle Paperwhite、電子書籍リーダー、Wi-Fi 、ブラック

 

 

批判する姿勢と、黙々と行動する姿勢と。

f:id:meta-kimura:20180607103745j:plain

 コミュニティ・ユース・バンクmomoの総会資料が届いた。パラパラと眺めていたら、懐かしい名前を見つけた。ある人は理事になり、ある人は監事になるという。頭が下がる思いである。心ある人は心ある行動をとるものなのだろう、と勝手に決めつけた。全くもって、勝手なものである。
 momoはあいちコミュニティ財団のもとになった団体である。あいちコミュニティ財団といえば、なんだかんだと燃え上がった団体である。つまりは、今、momoは火中の栗と言ってもいい状況で、要は、大変なのだ。その火の中に手をつっこんで責任を取りに行くなんて、よっぽどの変態である。その事業の存在意義を信じていて、この社会に必要だと思っていないとできない。こういう人が、本当の応援者であるのだろうなぁ、なんてことを思う。

●◯。。。...

 正しいことは軽々と主張できる。世にワルモノを見つければ、そいつはワルだと言い立てるころはたやすい。たやすい言説は生産されやすく、コピーされやすく、リツイートされやすく、そして、徐々に過激になっていく。「正しければ、言ってよい」がひとつの公式である。いつの間にか「正しい範囲であれば、何を言ってもよい」に変化する。
 そういう批判や指摘は往々にして、次をつくろうとしない。言いっぱなしである。言いっぱなしは楽である。楽だから手数は多い。書き手の検討や悩みはそこから見えてこない。そんな言葉がSNSにちょこちょこあらわれていて、モヤモヤしていたところだった。
 その責務を引き受けた覚悟には敬服する。大人ってのは、他人の責任を背負おうとする人のことであると、内田樹さんがどこかで書いていた。今回立った人は、大人なのだと思う。(わたしはまだまだ子供である)

●◯。。。...

 沈黙は金なり、とわたしは言わない。名古屋にいたときには、名古屋には論壇が必要なんじゃないか、とか言ってたりしたわたしである。わたしは言葉の力を信じているし、一杯のお茶がもたらす落ち着きを信じている。
 本来、言葉は思考を固めるものではない。批判は「そうでない」と伝えると同時に、同じくらいの反作用で「そうである」可能性を書き手に突きつけるものである。だから、書いたところでやっぱり悩む。考える。悩んでいる点においては、批判者は批判される対象と同じなのだ。批判は、その悩みの一部を引き受けようとする試みと言ってもいいのかもしれない。

 いずれにせよ、相手の立ち位置に自分を置かないと、言葉はきっと他人事になる。もっと厳密に言えば、相手の立ち位置に自分を置こうとする努力をしないと、かもしれない。自分の範囲を拡張する必要が、出てくるハズなのだ。
 テキストが飛び交う世の中なのだから、もう少し丁寧に、言葉を扱いたいなと、いつも思っている。

 

m(_ _)m