meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

本を「読む」ということは、どういうことなのだろうか?

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 ゴールデンウィークの初日は、部屋の模様替えと、プランターの世話と、ちょっとした断捨離と、掃除と、昼寝で過ぎていった。家事の合間に、レイ・ブラッドベリの短編を挟む。ぐ、ぐ、と踏みしめていくように、『10月はたそがれの国』を読み進める。ひとつひとつが重い。心があちらの世界に持っていかれる。追われていなければ、なかなか読み切れない類の本だなぁ、と思う。

●◯。。。...

 改めて「読む」ということについて考える。大変に遅読なわたしではあるけども、そんな身なのに、読書ナビゲーター的なことを何度か引き受けてきた。いつも伝えてきたのは、もっと自由に本と向き合ってもいいのだよ、ということだった。
 対象が大学1年生だったから、そんなに難しい話をしてたわけではない。ただ、1冊の本を、1から10まで読まなければならない、最初のページから最後のページまで走りきらなきゃならないのだぞ、という無言の圧力を感じてはいないか。感じているのであれば、それは無用のプレッシャーなのだと気付いてもらえるといい。そうしたら、もうちょっと肩の力を抜いて、本と遊んでもらえるだろう。そんなことを考えてナビゲーター役を引き受けていた。
 なのに、そのくせに、わたし自身は未だにそのプレッシャーを背負っている。ひとつひとつを噛み砕いて、理解しようとして、読み疲れを起こしてしまう。医者の不養生、というか、ミイラ取りがミイラになる、というか、まぁ、自由な読みってのは、わたしの願望なのだ。

●◯。。。...

 ひと言に「読む」といっても、そのイメージするところは違う。「食べる」や「歩く」「持つ」という動詞が意味する行為はだいたい明確なのに「話す」や「考える」「読む」は、曖昧で、多様だ。なぜこんなにも解釈の幅がとってあるのか。たまに不思議になる。
 文字を目で追いかけていれば、ひとまずは、読んでいると言える。しかし、文字を追っかけたからといって、内容が理解できているかどうかは別問題だ。わたしはニーチェツァラトゥストラを丘沢静也訳で読んだけれども、内容なんてさっぱり頭に入らなかった。村上春樹訳の『フラニーとズーイ』もまったくの時間の無駄だった(無駄としか思えないほど理解ができなかった)。
 何を言っているのかわからない。わからないけどとりあえず最後まで文字を追いかけてはみた。これを「読んだ」と言っていいのかどうか。多くの人が、それでも意味はある、と言うだろう。それも読書だと言うだろう。とはいえ、読んだ本人に読めた実感はない。それはそれで虚しい。

●◯。。。...

 では、例えば星新一の『きまぐれロボット』を楽しんだとして、内容を理解できたのかと問われたら。きっとわたしは、理解できたとは思う、としか答えられない。言葉は平易だ。内容もわかりやすい。だが、内容とは何なのか。そこが曖昧模糊としている。掴んでいるようで、掴めていない。
 内容とは、筆者の意図なのか。文章が連れてくるイメージなのか。「爽やかな朝日の中で、K子は朝食をすませた」と書かれていたとして、自分の家のダイニングルームをイメージする人もいるし、自分の部屋を思い浮かべる人もいる。朝日にだって、春のぽかぽか系もあれば、夏のギラギラ系もある。どんなイメージが正しいのかは、誰にもわからない。
 わからないのに、正しい内容があると思ってしまう。その神話が、読書を縛りにくる。

●◯。。。...

 ここまでくると、「読んだ」とか「読めた」に向かう必要があるのか、疑わしくなってしまう。どちらも結果を気にしている言葉だ。読書の成果が問われている。
 わたしたちは筆者のメッセージを受け取ったぞと宣言する必要があるのだろうか。内容を飲み込めたのだと実感する必要があるのだろうか。成果のない読書を楽しむ余裕は持っていないのだろうか。
 理想的な読書、正解を追い求めることがそんなに悪いわけではない。わたしはそこまでのアナーキストにはなれない。ただ、その最終ゴールには到達できないことを知っておかなければならない。
 自分が正しさの病にかかっているなと思ったときには、読み力を引き上げる方向ではなくて、アプローチを変えることを検討すべきなのだろう。HPやMPの伸びを目指すよりも、技や術のバリエーションを増やすことだ。力をつけろったって、そうそう簡単につけられるもんではない。工夫やコントロールができるのは、方法であり、Howなのだ。
 わたしの場合は、そのHowに対するこだわりを捨てられるかどうかがポイントなのだろうなぁ。うーん、読めない。

 

m(_ _)m

 

 

10月はたそがれの国 (創元SF文庫)

10月はたそがれの国 (創元SF文庫)

 
ツァラトゥストラ(上) (光文社古典新訳文庫)

ツァラトゥストラ(上) (光文社古典新訳文庫)

 
フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ (新潮文庫)

 
きまぐれロボット (角川文庫)

きまぐれロボット (角川文庫)

 

 

【山登りlog】岐阜_養老山_859m

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 きつかった。桜の盛りに養老山に登ってきました。これまで金華山、南宮山が400mぐらいの山だったので、800mをこえる養老山は「チャレンジ」でした。結果としては、登れんことはなかったし、楽しかったけど、しんどかった、です。

●◯。。。...

 いつもより標高が高いってのはわかってたので、少し早めの時間に到着。川沿いの臨時駐車場にとめることができました。まずは麓に広がる桜を楽しみつつ、登りはじめます。

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 朝早めだからなのか、人も少なめ。しかし、すでにそれなりの傾斜になってます。道沿いの食べ物屋さんから「帰りに寄ってね~」と声がかかる。登山客慣れしてます。

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 ちょっと上にくると桜が少なくなって、新緑の楓とかも出てきます。葉っぱが赤いところもあって、なんか秋みたいな写真も撮れたり。

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 山の中に混ざった桜がキレイ。こうやって花が咲いてるとシャッターを切る回数も多くなります。ほとんど麓の写真じゃないかと、あとで思いました。

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 養老の滝まで来たところ。ここまでで既にしんどい。身体があったまって、上着脱いだりしてました。道の傾斜がきつくて、それなりの運動になります。ただし、まだ登山道ははじまってません。先が思いやられる。

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 養老の滝の横から登山道へ。

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 まだ登山道に入ってないのに、この眺めです。既に結構高い。このあたりまでは車でも来ることができて、養老の滝の駐車場に止められます。ただ、駐車料金が1,000円かかる。それなりに高いです。

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 養老の滝駐車場の入口のところで登山届けを書きます。登山名簿みたいな感じになっていて、名前とか入山時刻とかを書きました。帰ってきたら名簿の下山欄にマルをつけます。こういうのは初めて書きました。ちょっとランクが上の山なんだなぁ、と実感。

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 やっとこさ登山道入り口に辿り着く。といっても工事車両が入れるようになってるっぽくて、広い道が整備されてます。

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 飛び石(コンクリート?)を渡ってからが本格的な登山道です。三方山を目指します。

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 飛び石渡渉後、一気に登ります。急坂過ぎて、アキレス腱のびのびです。つづら折りの急坂道を抜けるのに1時間弱はかかったかと。養老の滝までの道でもへこへこしてたので、これはしんどかった。しんど過ぎて、途中でリタイアして降りるか、という覚悟を何度かしました。うへぇ。ゆえに、カメラをリュックから出す余裕もなく。ほぼ撮ってません。

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 キレイだけどなんの花かわからん、知らん(いつものこと)。

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 急坂を抜けると、尾根道になります。だいぶとなだらかになるのですけども、既にバーンアウトした足腰にはつらい坂道です。道は整備されてるんだけどなぁ。

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 三方山の頂上から濃尾平野を望む。いやぁ、だいぶと目線が高くなりました。残念ながらの黄砂か何かでもやっもやです。そんでもなかなか見応えありの展望です。
 この辺りから、ちょこっとコミュニケーションが出てきました。同じぐらいの時間に登りはじめた登山客が何組かいて、それぞれのペースで同じコースを登るので、抜きつ抜かれつ、なんとなーく顔を覚えるわけです。挨拶が「こんにちはー」から「おつかれさまですー」に変わっていくのが新鮮でした。

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 三方山から小倉山へ。山脈の上の世界です。下界とは植生が、たぶん、違う。よくわからんけど、あんまり木が生えてなかったりして、地肌が見えています。視線を遮るものがないので、景色もよろし。風は強い。

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 小倉山からさらに進んで養老山の山頂へ。養老山の山頂は展望なしです。一等三角点があります。岐阜県に17個ある一等三角点のうちのひとつ、らしいです。ネット情報なので、本当かどうかは定かではありません。といっても、17個だからそんなに珍しいってわけでもないんだろうなぁ。
 序盤の急坂登ってるときはここまで来れるとは思ってなかったので、よー登りました。正直へっとへとです。ビスコ食べてなんとか乗り切ってます。

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 景色のいい小倉山まで戻って、おにぎり頬張りました。東屋とかもあって整備はされているものの、冷たい風が吹き付けて寒い。あんまりゆっくりしてると、身体が冷えちゃうのでそこそこ休憩して下山しました。風さえなければあったかい(暑い)のに。自然は厳しいなー。

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 足ぶつけたり、急坂でズルっと滑ったり、コケそうになったりしながら下山。もう膝が笑いまくりです。増えた観光客をヘロヘロと縫いつつ、車まで戻ります。登山道入り口までの道のりが長かったので、登山道を抜けてからの帰り道も長い。寄り道もして、ちょいちょい休んでます。
 ですが。最後の最後に思いっきりコケました。道の端っこの段差で足をぐきっとひねって、おわっと手をついたけどもその勢いを止め切れずに、再度勢いが増してドサッと倒れた感じ。コケた本人が一番びっくりしてました。何が起こったのかわからんですね。
 とりあえず、生傷は増えたものの、特に大きな怪我はなく。人里に降りたからといって気を抜いちゃいかんです。身をもって学びました。はい。

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 最後にもういっかい桜を撮影。温泉しかない!という意気込みで養老温泉ゆせんの里に向かいました。言うまでもなく、身体動かしまくった後の温泉はむっちゃ気持ちよかった。

 以下のログはYAMAPアプリでとっていたものです。帰りの小倉山過ぎた辺りでどうやら途切れていたらしい。なので、途中までの記録です。m(_ _)m

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古武術に学ぶ身体操法 (岩波現代文庫)