土地は均質化しているか?
今回の1人旅で考えてたことの1つ。
近代化だとかなんだとかで、
「日本各地、どこに行ってもみんないっしょ」
と、なってしまっている。
マクドナルドや、マックスバリュはどこに行ってもあるし、
アスファルトの景観は、だいたいどこでも同じに見える。
とか。
例えば、上の写真を見たって、どこの写真とか言える人はいない。
で、だいたいがこの論理を持ち出して、
「だから現代は駄目だ!」
「駄目になっちゃったんだ!」
と言い張る。
まぁ、そうなんんだろうけどもさ。
そもそも日本各地の景観なんて、そんなに変化に富んでたんかいな?
とも言いたくなったのである。
農村の景観であれ、都市の景観であれ、確かに均質化は進んでいるだろう
けども、バブル以降に育ってきた私たちから見ればもともとおんなじだった
んじゃないか?とも思えてしまうのである。
ひと昔前までは、旅行なんて一部上流階級のもので、
そういう人ってば、おおよそ知識人だったりしてて、
その観察力からして、この地方の特性はあーだとか、こーだとか、
言っていたのではないのか。
そんなもん、一般庶民にとっては、小異過ぎて大同に見えるのではなかろうか?
だとしたら、各地の均質化問題には、見る側の観察力低下が
からんでいるのではないか。
と、
まぁ、 そんなことを考えていた。
多分、私は平均的な成人男性よりも多く旅をしているとは思う。
だからといって、えらっそうなことを言えるわけでもないが、
ひとつのポイントは「如何にその土地を見るか」にある。
松山であれば、私が驚いたのは
「 市電の乗降口のステップの高さ 」
だったりする。
高齢者、障害者待ったなし!!!(意味不明) の高さだった。
ノンステップ電車があったかどうか知らないが、
もし、この段差が標準なのだとしたら、松山は余程成熟した
都市なのだろうな、と妄想できて、
そういうのが、おもしろい。
おもしろく見る目線が、大切で、
それを支えるのは、知識、観察力、妄想力、あと美的感覚なのではないか?
自分を取り巻く空間なんて、案外海外に行ってもそう大きく変わらない。
天が地になり、右が左になることなんて、そうはないのだ。
見られるものをわかりやすく作り変えてしまうより、
がんばってわからぬものを見てみるほうが楽しくないかね?