meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

『飛ぶ教室』 ケストナー再読の衝撃


 東京GIS勉強会の報告を書こうと思いつつ、
 今日再読した『 飛ぶ教室 』が素晴らしすぎたのでこっちを書く。

 なんというか、かめの選ぶ本ってのは、やっぱすごいな。
 エンゲル係数じゃなくて本ゲル係数が指標になるだけはある。 ほんと。


 さて、再読である。だいたい1年ぶりぐらいに読んでみた。
 というより、「 よし、読むぞ! 」と意気込んで読んだわけでなく、
 なんとなく手にとってたら、そのまま読んでしまったという類の再読
 である。遅読の代名詞たる私が半日もかからず読んでしまったのだから、
 それだけで衝撃ともいえる。

 ケストナーは児童文学で有名なドイツの作家だ。その文章は、軽快で、
 簡潔と言われる。って、書いてあるけど僕は詳しくない。『 エーミール
 と探偵たち 』とか、どっかで読んでるかもしれないが、とりあえず
 この『 飛ぶ教室 』だけが記憶にある作品だ。

 その思想は、丘沢静也さんのこの解説に端的にあらわされている。

   「すなおな感情、はっきりした思考、かんたんな言葉」にこだわった。
   言葉の綱渡りや、ものごとの神秘化を嫌った。深さよりは浅さを、鋭さ
   よりは平凡を、曖昧さよりは明快さを大切にした。軽いジャブをくりだ
   した。カフカのように日常のなかに非日常をみることはなく、日常的な
   ものを日常的に見た。

 久々に『 飛ぶ教室 』読んで、この解説にあたって、自分が全く逆の
 方向に走ってはいないかと気づかされた。進化を深化と捉え、明快なもの
 より曖昧な何かを求めていた。そして、曖昧な何かを「 ある 」と信じ
 深くもぐって言語化することに固執していたように思えて、笑えた。


エーリッヒ・ケストナー 写真で見ると、結構渋い? 】

 ただ、私は背景になることをよしとしない人間だ。
 脇役になろうなどとは到底思えない。そんな人間は、複雑に絡まっている。
 軽快に、ジャブを打ち出しながら生きるのは難しかろう。なんらかの武器を、
 自分に似合った武器を、鋭く尖らそうとするのも、まぁ、仕方がない。

 ちなみに、これから投資って何に向かってるんだろうと考えたところ、
 「 編集 」と「 森林 」と「 コミュニティ 」か。。。
 森林は、森林っちゅうか、なんかそういう流れへの投資になるんだろうけど。

 それにしたって、これまた、どこに向かうのかねぇ(笑)



 おっと、解説がすばらしすぎて中身の話をしていない。

  < ここから読んでない人はネタバレ注意! >

 特になんてことはない学園モノである。他校との争いが出てきたり、仲良し
 グループが頑張ったり、いじめられっ子がいれば、腕っぷしの強いのや、
 すんごく賢いのが出てきたりする。

 中でも気になるのは、いじめられっ子のウーリだ。

 ウーリは何も持っていない。弱虫で臆病で、チビである。
 一番ケンカが強いマティアスと仲が良い。この2人の関係が不思議だ。
 たんにマティアスがウーリをかばっているだけにも見えなくもない。
 でも、マティアスはウーリが好きなのだ。2人は本当に親友なのだ。


 ウーリには何か特技があるわけでもなく、実は物語中何も成功させない。

   「 助けたのか? 」と、先生がたずねた。
   「 ええ、もちろん、 」と、5人のうち4人が答えた。ウーリは黙って
   いた。「 はい 」と言う資格がないと思ったからだ。

 ウーリは自分の臆病を嫌い、みんなから尊敬されるために、運動場のはしご
 からコウモリ傘を持って飛び降りる。

 結果は、骨折だ。

 仲良しの誰からも責められないが、ウーリが骨折したことで翌日のクリスマス
 劇の役者が1人欠けてしまう。冷静に見れば、「 ウーリ、何やってんだか 」
 と思っても仕方がない。これによって、ウーリが集めたかもしれないクリスマス
 劇の歓声は、後輩にゆずられてしまう。

 ただ、この試み以降、ウーリ自身にあったある種の暗さは書かれていない。
 著者のあとがきに、ウーリはこんな言葉で表現される。

   「 ウーリは特別なんです 」とジョニーが言った。「 あいかわらずクラス
   で一番チビなんだけど。でもね、前とはすっかりちがう。マティアスは完全に
   ウーリの言うがまま。ぼくらだって似たり寄ったりかな。ウーリはチビのまま
   だけど、なにか力を秘めていて、その力には誰も逆らえないんです。ウーリは
   そんなつもりないんだけど。じっと見つめるだけで、もうウーリが勝っちゃう 」

   「 あのときウーリは自分で自分に勝ったわけだ 」と、船長は考えながら
   言った。「 だからほかのことは、大したことじゃなくなった」

 ウーリは臆病じゃなくなったわけでも、弱くなくなったわけでもないだろう。
 それでもやっていける何かを見つけたのかな?


 どうもウーリの姿を見ていると、なにか力を持とうとする私と重なってしまう。
 持たざる者であり、それは必要とされない者につながっている。

 そして、その位置は結局不思議でわかりにくいということだろうか(笑)


 ケストナーはまえがきでこう書いている。

   ただし、自分をごまかしてはいけない。ごまかされてもいけない。災難に
   あっても、目をそらさないで。うまくいかないことがあっても、驚かない
   で。運が悪くても、しょんぼりしないで。元気をだして。打たれ強くなら
   なくちゃ。

 ほんでもって、解説でこう評される。

   とはいえ、啓蒙というものの限界も知っていた。馬鹿は死んでも治らない。
   ペンで世界を変えようという野心はなかった。けれども世の中がこれ以上
   ひどくならないために、みんなが理性的になることが必要だと考えていた。


 ケストナーが軽くうったジャブが、案外きつく響いているようである。