meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

にほん教 【 SFC nagoya 】




【 きむは相変わらずいい顔でニヤニヤする 】

 昨夜は久々にがっつりとSFCnagoyaな夜でした。
 こーへーくんに無理言って、いい場所を使わせてもらったため、
 なんとまぁ、深夜1時ごろまで続くという、記録的な授業(?)
 でした。19時に集合して、20時から始めたと考えても5時間ぐらい?

 そりゃ、帰ってきたら疲れるわな。

 そして、みんなの近況&次のステージっぷりも半端なく、
 バードさんの自己紹介と実はマイプロ近況報告で3時間ぐらい
 費やしていたのでした(笑)


 いろいろ変わって、いろいろ相変わらずなSFCnagoyaです。
 みんな進んだり、迷ったり、悩んだり、走ったりしています。

 踊ったり、歌ったりしてる人もいますがw


 はい、さてさて、今日の授業は久々の登場、
 あさいさん(@G_net_ASAI)からのお題、
 「 死刑制度についての議論 」 です。

 「 死刑制度賛成か反対か 」なんて普段は意識せず考えない話。
 ( この態度があとに述べる にほん教的な態度なのですが )
 メンバーの中で結論が出るわけでもないのですが、それぞれの
 生命へのこだわり、社会へのこだわりが滲み出た会でした。

 中でも力強かったのは、こーへーくんの意見。

 「 人は必ず、変わる可能性をもっている。たとえば、無差別殺人鬼であった
   としても、自分の娘は殺さないとか。わかりあえる共通点がそこにはある
   はず。宗教とか思想のもっと根本にある共通的な感覚。命はつながって
   いるような。そこを見出していけば、死刑囚が変わっていく可能性も
   信じることができるはずじゃないのか 」

 僕がちゃんと捉えられているかわかんないけど、このような主張だった。
 いつもこーへーくんの意見は力強くて、信念がある。

 対して、僕は「 その可能性に付き合えるほど成熟した社会ではない 」と
 反論する。つまるところ、いまどき死刑を言い渡される人間など、よほど
 呆れるような人間なのだと思ってしまうのだ。


 それでも、こーへーくんは「 生命には、根底に流れる共通のモラルがある 」
 可能性に光を当てつづける。そして、あさいさんはその考え方が「 にほん教 」
 だという。



 この「 にほん教 」という発想は、すごく腑に落ちるものだった。
 (ちなみに、にほんが漢字なのか、平仮名なのかはあさいさんに確認してない)

 これもきちんと理解できているか、不安だけど書いてみる。

 ヨーロッパやアメリカでは、当たり前に「死刑」への意見を持っている。
 これは、キリスト教などの宗教が背景にあるからだろう。こういう議論に
 おいて、宗教の影響はかなり大きい。

 対して日本人は「 無宗教 」だと呼ばれる。考え方の背景を持たず、
 なんとなく「 何も考えない 」人がとても多い。


  思考停止を、無宗教に起因するものと捉えている。
  そして、無宗教であるがために、「 自分はフラットだ 」と思う
  癖を持っているように思われる。

  それこそが、実は「 にほん教 」という宗教的な思考ではないのか?

 ということを、あさいさんは言っていたと思う。


 宗教は価値観を決めていく決定的な要素であり、外国人からすると
 無宗教であることはあり得ないのだそうだ。その結果、例えば「 キリスト教
 の対構造にある何か思想的な基盤があるはずだ 」と思って話してくる外国人
 に対して「 そんなのないよ 」と言ってしまうわけだ。

 だけど、実はそこには見えない思想的根拠がある。
 あるのに、ないと思ってるから、議論にならないことがあるのではないか?



 そうか~

 フラットだと思っていること。
 無宗教だと思ってること。

 それが、実は僕たちが偏ってたり、違和感を持ってたりしている
 「宗教」と同質のものだと捉えることって、自分の考えの中に
 なかったなぁ~、って。
 それを意識することで、やっと世界に「 日本的思想 」を提言
 していけるんではなかろうか?

 そして、この「 にほん教 」が、今の社会の主体性のなさとか
 無力感につながっているのでは、とあさいさんが言っていたが、
 その点に関してはちゃんと深められなかった感があるな。


 いやいや、それにしても、死刑の話から、こんなところまで広がるとは。。。

 そして、おいてけぼりをくらう今回の課題図書
 『 これからの「正義」の話をしよう 』

 でした。 読んできたことには意味があるんだけどねw