「正しい批判」とは何か?
この前のエンドゴール平日勉強会のとき。最後にそういえばと思っていた
ことを大久保さんにぶつけてみた。
「 大久保さんは師匠を見つけて、徹底的に真似なさいという。
なので、師匠を探していたけど、どうやら僕自身はどうしてもそこまで
心酔しきれない性格のようで、その考え方まで真似するのが難しい。
そんな人間でもやはり師匠は必要なのか? 」
的なことを言ってみた。答えは、
「 それでも必要。ただ、自分の行い二間して、疑問を持ちつつもとりあえず
やってみるという状態なら、大丈夫 」
とのことだったと思う。なんとなくそのままでも大丈夫だ、と言われた気が
しないでもなかった。多分僕も厳密な意味で師匠と捉えていないだけで、
周囲にたくさん師匠がいるもんだろうと思っている。大久保さんだって師匠だ。
勉強会のあと、1人の女の子が寄ってきて、こんなことを伝えてくれた。
「 kimuraさんの話がすごくわかる。わたしも批判的だから。
ただ、わたしの大学の先生が『 正しい批判 』を教えてくれた 」
正しい批判とは何ぞや?と聞いてみたが、その後の話は腑に落ちなかった。
曰く、データがどうこう、客観がどうこう、、、
腑には落ちなかったものの、女の子は『 正しい批判 』を私の頭に残して
いってくれた。先週末、何かに活動しつつも、この言葉をめぐって頭がぐるぐる
していたに違いない。
昨夜、歩いているときに、ふっと答えが弾きだされた。
批判は、「 そうではないのではないか? 」と常に疑うことでもあり、
「 そうあるかもしれない 」と常に肯定することでもあるんじゃないか。
と。
批判的であるということは、世の中を批判するばかりではなく、自らの意見や
立場も批判する。つまりは、
自分の見方を定めない。
立場を固めない。
観点を動かす。
だから、批判的であるということは、相手の意見に対して
「 そうでないかも 」と「 そうであるかも 」の両方をあわせもつ。
これが僕が求めていた批判的な姿勢であり、私の今の姿勢なのだ。
言い換えれば、常に検討の余地を残すということである。
つまりは、批判的であることを続ける限り、私は迷い続ける。
ああ、なるほどな、と。 道に迷うわけだと。
でも、それでいいではないか?研究でもなんでも、結論が出ないから
探し続けるんだろうし、結論だと思っちゃえばそこで探求は終わりだ。
探求のプロセスが楽しいのに、終わらせてしまうのはもったいない。
東大の水越伸氏が「 批判的実践者 」という言葉を使っているのを
見て、「 ああ、まさしくこれではないか 」と納得したことがある。
【 写真を見るだけで、なんんかおもしろそうな人のような気がする 】
実践しながらも、批判する。
それは、多分自らの行いも含めて批判的に考え続けるということだ。
まだ著作に手を出していないのだが、その言葉だけでもこの人はずっと
気にかかる存在になっている。
『 真実がだた1つでないということは、真実の価値を少しも損ないはしない 』
以前ブログのトップに掲げてた言葉だ。
ものごとは、背景が変われば、その価値が変わる。
ある人の世界観を批判的にみたからといって、その価値は損なわれないのだ。
どちらも真実であり、どちらも事実である。
「 正しい批判 」という言葉を投げかけてくれた女の子に感謝しなきゃな。
また平日勉強会で見かけたらありがとうと言ってして、この考えを伝えてみよう。
こんな話をしても、引かれない、、、とは、思う。