愛を語ることは幸せか? 【SFCnagoya】
SFCnagoya、今回の授業テーマは「愛」について。
課題本はエーリッヒ・フロムの『愛するということ』だ。
ページ数は少ないが、読みごたえのある本で、手間取った。
さて、授業で感じたことを書くわけだが、1つお断りがある。
このブログは、完全にkimura個人の興味と関心と解釈と見地で
書こうと思っている。ゆえに、授業logとしては捉えない方が
何かと都合がよろしい。その点、あしからずm(_ _)m
【 愛について語るのが楽しそうなみぽりん 】
授業の口火を切ったのは、私のこんな感想だった。
「 人間は、2人の人間が1つになること、一体感、融合を求めているという
前提からはじまっていることに違和感がある。孤独であることに(ある種の
諦めをもって)満足している人もいるのではないか?『2人が1人になり、
しかも2人でありつづける』という状態もイメージできないが、何より、
2人で1人になるという欲求がそもそもない人もいる 」
とりあえず、この違和感から女性陣2人、対、私という構図が浮き彫りになって
しまった(笑)人間関係へのスタンスが根本的に違っているのである。
つまりは、私は「 人と人が融合することは、ない 」という前提で人間関係
を捉えているのである。私は私、あなたはあなた。私が感じたことと、同じ
ことをあたなが感じるとは思わないし、むしろズレを楽しむ。ズレの方が
おもしろい。 と、まぁ、こういう考えなので、どこにいても他者との間に
一線引くわけだ。恋愛関係でも、「 同じ1人になろう 」なんて考えたこと
はほとんどない。
経験上なのだが、そういう線を越えさせない関係を好む人もいる気がしている。
孤独が好きな人。個であろうとする人。
この点が、どうしても女性陣とすり合わなかったw
本当に「愛する関係」を知った人からみれば、孤独や孤立なんて淋しいこと
言うなよ!!!と思ってしまうのだろうか。特にみぽりんは、「 線を越えて
わかろうとする 」感覚があるようだ。「 あなただからね 」というところ
では済まない関係。なぜそう思ったのか、きちんと理解しあう。それは辛い
ことだし、すごく努力の必要なことだが、全身でぶつかり合うような、心と心を
本当の意味で結びつけるような豊かな感覚なのだと。
それをわからないでいるなんて、もったいない! という気持ちなのだろう。
こうなると、「 愛 」の感覚がわからない私が、ひどく不幸に思えてきたw
真の愛なんてものに、出会ったことがあるのであろうか?と。与えられる、
信じられる、という感覚は、ありがたいことに去年ぐらいから味わってきた。
でも、みぽりんの話を聞くにつれて、「 あの程度では愛ではなかったのか 」
とも思うようになってしまう。”価値の出し方”という記事をむかし書いたが、
その構図が思い出されてきた。
絶対善、最高の幸福としての「 愛 」を語ることで、その不足状態にある
持たざる者は、現状との比較によってひどく不幸になってしまう。
エンドゴールの平日勉強会でもしばしば語られることだが、理想状態を知る
ことで、現状できていない自分が浮かび上がる。それもはっきりと。
だから辛くなって逃げてしまう人も多い。本当はそうあるべきなのに。
しかし、「 絶対善 」というのは気にくわないんだろうなぁ、と思う。
愛は疑う者にはわからないらしいので、信じるは信じるがw
【 愛と不安は両極だという説もあるそうだ 】
一方、ともゑは、「 愛は世界に対する態度だ 」という。
能動的な愛は、世界に対して与える姿勢、ってことかな。個別的な経験であり、
愛を広げる必要性( みんなに愛をわかって欲しい!とすること )には若干
違和感を持っているようだった。
この「 与える 」感覚はとても重要だろう。
見返りを求めないのが、愛、というが、『愛するということ』の中では、
こう表現されている。
生産的な性格の人にとっては、与えることはまったくちがった意味をもつ。
与えることは、自分のもてる力のもっとも高度な表現なのである。与える
というまさにその行為を通じて、私は自分の力、富、権力を実感する。この
生命力と権力の高まりに、私は喜びをおぼえる。私は、自分が生命力にあふれ、
惜しみなく消費し、いきいきとしているのを実感し、それゆえに喜びを
おぼえる。与えることはもらうより喜ばしい。それは剥ぎ取られるからではなく、
与えるという行為が自分の生命力の表現だからである。
「 権力 」という言葉が入っているので、ちょっと???な感じもするが、
おおむね、納得のいく内容ではある。しかし、ここでもごねるのが私だ(笑)
「 彼女のために食事をつくったとしよう。それはそれで満足なのだが、
あとあとになって、肩が凝っているので揉んでよ、と彼女に頼むと、
いやだ、と返されることもある。そんなときに、食事つくってあげた
のに。。。、と思うこともあるよね 」 と。
食事をつくったときは、その人に与えていたのかもしれない。
だが、そのあとになって、見返りを要求してしまう態度。
これは、愛といえるのだろうか?
こんな卑近な例で語ってしまうのが悪いのかもしれない。 だが、「 与えた
けど、返って来ないなぁ~ 」と思ってしまう瞬間は、意外に結構あるw
与えたときは愛があるが、見返りを要求した時点では愛がないと考えると、
愛は時間によって変化すると解釈される。これは真の愛の永続っぽさに反する
気もする。 これは、なんだろう?
愛の能動的性質を示しているのは、与えるという要素だけではない。あらゆる
形の愛に共通して、かならずいくつかの基本的な要素が見られるという事実に
も、愛の能動的性質があらわれている。その要素とは、配慮、責任、尊敬、知
である。
と書かれているように、単に配慮が足りないだけなのかもしれない。そういう
現実的な問題こそが、愛の実践には大切なのではなかろうか。
( ちなみに、相手に求めることによって、相手が与える機会を作り出す
といった構図もあるのではなかろうか? とか思ったりもした )
さてさて、ここまで書いてきて、やはり思ってしまうのが、
愛はパラドシカル過ぎる、 ということだ。
愛は、時間とともに変化し、永遠である。
愛は、2人であることを保ちつつ、1人である。
愛は、普遍であり、局所的である。
愛は、あるかなしかであり、濃淡のついたグラデーションでもある。
つまり、いかようにも解釈できてしまうがために、「 都合のいい言葉 」
として利用される危険性を含んでいる。なんでも愛で肯定できるし、何でも
愛ではない、といって否定できてしまう。 こはいかに?
おそらく、「 愛 」は問いだ。
それを巡って考えること、議論することが「 愛 」の意味なのでは
なかろうか? と、捉えるしかなかった。答えの見出せない私は。
「 愛 」は言葉を尽くしても伝わらない。 ということもわかってきた。
実践していかねばならぬ。感覚を味あわねばならぬ。
実践の場は、誰の日常の、どの場面にもあるはずなのだ。