わけのわからない言葉で遊ぶ
わけのわからない言葉、理解できない言葉ってのは、
一見、自分にとって無価値のようだ。
何かそれぞれの単語はわかるんだけど、どういう意味なのか
わからない、ってことが、松岡正剛の本を読んでいるとちょく
ちょく出てくる。
例えば、さくっとページを開くと、
「 編集はつねに『情報の様子』に目をつける 」
という言葉が見つかる。 それぞれの言葉はわかるが、
何のことやらさっぱりだろうと思う。
他にも、編集稽古の中で、ある意味無理やりに(?)出てきた
言葉も案外おもしろい。「 遅れの稽古 」とか、何のことか
わからないけど、なんとなくおもしろい感じはある。
企画を考えているときには、ぐ~~~~~っと考えつつ、ふと
した瞬間におもしろい発想にたどり着いたりする。それは多分、
アイデアに行き着くまでにたくさんの言葉があり、それにひも
づいた連想があるのだ。
私の場合は、それを思いついたままにだーっと書くことが多い。
その中には相当変な言葉もあったりする。
「 ソーシャルファイナンスは支援の空気感をつくる 」 とか、
「 いい即興を仕掛ける 」 とか。
何となくそういう言葉から、連想を続けて、飛ばしたり、練ったり。
ほんで、企画のときだけじゃなくて、普段でもたまによくわからない
ことを考えたりしている。
「 学生と社会人の間の関係から新しいカテゴリーを生み出してみる 」とか
「 部分最適を繰り返すとデッドスペースが生まれやすい 」とか。
わかったようなわからんような言葉を、
なんか見たときに頭の中でつぶやいていたりするのだ。
ぐるぐると言葉をまわして、ないものをくっつけたり、線で
つなげてみたり。そんなことをして何ができるのかと言えば、
なんにもできないわけだが、何となく楽しいのだ。
とかく、私の思考にはジャンクが多い。
9割の言葉は、そのままに死んでいく。
このジャンクの多さが、自分の特性なのではなかろうか、
とも最近思っている。そう捉えれば、このブログの質の低さも
許されるんじゃないかとか。
書く数を減らしたからといって、質が高いものばかりになるどころか、
なんだか考えなしな記事になってきてるなぁ、と反省気味なのです。