meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

こころを成熟させる【 SFCnagoya 】


 SFCnagoyaにエンドゴールの大久保さんをよんでみた。

 っていう感じのぶん投げ感とフリーハンドさで、何だかもうほんと申し訳
 なかった m(_ _)m もうちょっと準備しとけばよかったと、当たり前
 のような後悔はなきにしもあらず。でも、楽しかったからよかったけどね!

 私が行っているエンドゴール平日勉強会の大久保さんとはまた違って、
 その対比もおもしろかった。



 「 感情をコントロールする 」

 という言葉がいい意味に捉えられるようになったのは、意外に
 ここ2~3年のことかもしれない。

 実は、未だに、「 感情をコントロールできないから、人生は
 おもしろいのではないか 」と思うこともしばしばある。激昂
 する、落胆する。その揺れが人に深みをもたらす。

 なんか、怒らない人や悲しまない人は、悟りきっちゃったようで、
 少々おもしろ味に欠けるのではないか、と。

 まぁ、コントロールできるからって、泣かないわけでも、テンション
 たっかくしないわけでもないのだが。


 「 感情は振り子のようなもの。 躁があれば、必ず鬱もある
   だから、躁でもなく、鬱でもない、振り子がだらんっと
   下がった状態であることを喜ぶ人が、一番安定して元気 」

 いけないのは、自分がとっても元気なのにその状態を自己認識
 できずに「 もっと元気にならなきゃ 」と思うことだそうだ。

 自己認識ができないと、心にも体にも無理が出てくる。前向き
 なのがいいことではなく、後ろ向きなのがいいことでもない。
 感情を素直に認識して、その上でどこに向かうかの指示を与える。

 コントロールのうまい人はそうやって感情をてなづけ、自分の
 目標に向かって歩みを進める。大きく挫折しようが、立ち直れる。



 この感情コントロールの姿勢を見ていると、何となく「 足るを知る 」
 に似ているような気がしてきた。もっと元気に!もっと明るく!と
 求め過ぎない考え方。ある程度自分のポイントをわきまえていて、そこ位置
 にあることに満足する。

 悟っちゃってて、なんかいけすかない考え方なんだけど、まぁ、そんな
 時代なのかなぁ、と思っている考え方である。

 ( 感情をコントロールすることで、向上心が失われることも、足るを知る
   ことで進化が止まるわけでもないのだろうが )

 感情をコントロールすることも、足るを知ることも、目に見えた発展が
 期待できない世の中が求めているコトなのかもしれない。

 ( 発展が期待できないという話題については、以前のエントリーにいくつか
   挙げている。「ドラえもんは死んだ」 「なくなってもいいのだ」 )



 ほんでほんで、おおよその心理理論がそうであるように、個人に当てはめ
 られた理論は、社会にも適用できる。 今の社会が自己認識をちゃんとして
 いるのかどうか? 社会の自己認識については、メディア業界に関わる人に
 きちんと考えてもらいたいテーマではあるなぁ。

 認識には、再生産の構造が含まれている。
 Aという現象を認識するために、Aを頭の中でもう一度イメージする。
 現在の社会において、認識時の意味づけを変えられるのは、やっぱり
 メディアなのだ。

 梅棹忠夫が見通した、情報の時代、ココロの時代、精神産業の時代、
 外胚葉時代が本格的に来ているんだろうなぁ、と思わざるを得ない。

 これからは、圧倒的多数に、精神的な発展と成熟が求められるんだろう。

 ( ぼくはガキなので、そこまで老成したいとは思わないがw )








 社会の自己認識に無理が来ていることを証明することはできないが、
 みんなの肌感覚はどうだろう?

 個人の理論をそのまま当てはめると、自己認識をして、それから社会
 の脳にどちらに向かうの指示を与える。

 どちらに向かうのか? どうやって指示を与えるのか?

 わたしなら、どうするだろうか?