みぽりんの日記に宗教の話が載っていた。
うん、たしかに、日本に宗教はなく、価値観はどんどん多様
になっていくように思う。この多様化を2極化とみることも
できるかもしれないけれど、個々の世界観を尊重するならば
やはり、多様化だろうなぁ、と考えている。
さて、今日の変な話は、1995年からはじめてみる。と、
いうのも、最近松丸本舗で買ってきた『 ゼロ年代の想像力 』
に、「 ふーむ、なるほど 」と思ってしまったからだ。
まだ半分も読んでないんだけどね(笑)
この95年というのが、オウム真理教が事件になったり、阪
神大震災が起こったりした年だ。経済的に言えば、バブルが
崩壊して、その後なかなか景気がもどらないだろうなぁ、っ
てのが予感されてきた時期だとかで、どーも、この時期に明
らかにされてしまったのが、
「 「がんばれば、豊かになれる」世の中から「がんばっても
豊かになれない」世の中への移行 」
と、
「 「がんばれば意味が見つかる」世の中から「がんばっても
意味が見つからない世の中への移行 」
のようだ。つまりは、みんなが信じていた、信じている、統
一的で、大きな価値観の崩壊だろう。
そして、崩壊したはいいけど、意味がないからどーにも落ち
着かないわけである。落ち着かなさをごまかしてくれる豊か
さもないわけである。なんだか、着地点がなくて、ふらふら
してしまう。
社会は何やらおかしくて、「 えいやら経済成長だい! 」
と勢いよくはいっていない。ほころびも見えていて、何かと
決めてやってしまうと誰かを傷つけてしまうこともわかって
いる。信じるものなく、ゆえに行動できず、選択せずに引き
こもる。そんな状況が95年以降にあらわれてきてたようだ
と言われれば、まぁ、そんな感じもしなくない。
大きな価値観が崩壊したのだから、多様化した中の1つを選
んで生きていくしかないんだけど、そもそもどれが正しいの
かわかったもんじゃないから、選ぶのは「 選択せず、引き
こもる 」だ。
明日の Network Session のゲスト、あつ のブログから引用
すると、
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当時もいまも、僕は自分の力を出し切るのであれば、正
しいこと(すべての人にとって価値があること)をした
いと考えるようです。しかし、この時期いくつかの海外
生活を経て僕は、「正しさとはなにか?」という大きな
問いに、断定的な答えをすることを避けるようになりま
した。日本とアイルランド、そしてインドで、その答え
は必ずしも同じであるようには思えなかったからです。
判断の保留こそが1番の安全地帯であるように感じられ
ました。
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ってことだ。ここから脱出するためには、結局「 えいや! 」
と自分の立ち位置を決めて社会に乗り出すしかない。本の
中では、そういう態度を「 決断主義 」と表現している。
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人々はもはや歴史や国家といった「大きな物語」に根拠
づけられない(究極的には無根拠である)「小さな物語」
を中心的な価値として自己責任で選択していくしかない、
という現実である。
( 『 ゼロ年代の想像力 』より )
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たくさんの価値観の中で、どこかに決めてかかってしまうと
基本的には前述のとおり「 誰かを傷つけてしまう 」。
さらに小さなコミュニティの中で世界が共有され、加速され
れば、集団分極化とコミュニティ間での対立構造ができてし
まう。この決断主義を超える何か、が、必要である。
タイプは2つあると思う。
1つは、ほとんど価値観/コミュニティに着地せず、常に
「 あるかもしれないし、ないかもしれない 」状況を続
けるタイプ。僕がこれに近い気がするが、相当しんどい。
2つ目は、何かの価値観/コミュニティに落ち着きながら、
「 余白 」を持ち続けることである。固まるでもなく、
流れるでもなく、軸は持ち続けて、余白をつくる。そのス
ペース、ちょっとした余裕をもつことが他の価値観との
回路をひらく道となる。
ほんでもって、この余白を保つために大事なのが、
「 問いかけ 」 とか、「 お題 」なのではないか、と。
そんなことを考えている。
おそらく、「 答え 」より、「 問い 」を大切にする
時代がくるんではないかなぁ。今のインタビューの流行に
しても、描くことや整理することよりも、インタビューで
の「 問い直し 」や、そこで起こる多様な価値への眼差
しに可能性を感じていたりするのだ。
と、最後に自分でもわけのわからぬ蛇足をつけてみる。