meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

コミュニティの群生


 今日あつに送ったメールにこんなことを書いた。
 「 追伸。
   どーいうコミュニティ同士の姿を描いているんで
   あろーか??? 」

 書いてから、そういえば、僕が今、見ているコミュニ
 ティ同士のあり方ってのをまとめてないなぁ、という
 ことに気づく。前々から書いてきたことにもかなり
 なるんだけど、ちょっとここに書いておこうと思う。



 「 コミュニティ同士のあり方 」っていうのは、1つ
 のコミュニティのあり方ではなくて、いろんな価値観、
 いろんなテーマのコミュニティがたくさんある、その全
 体としてのあり方である。異種族同士が、排他的になら
 ず、暴力的にならずに同時存在し続けることができるよ
 うな形、つまり、多様性を受容しつつ生き続けられる
 方法は、これからの時代にとって重要なテーマの1つで
 あると思っている。


 僕の考えの前提として、価値観は統一しない、させたく
 ない、というのが、まずある。コミュニティ同士がどん
 どん溶け合っていくことは避けたい。だいたいにおいて、
 何か1つにまとまって、「 みんな仲良し! 」っての
 は、相当に気持ちが悪い。ウゲぇ、ってなる世界だ。

 しかも、1つの価値観にまとまっていく世界には、多様
 性がない。成長期においては、みんながまとまって同じ
 方向を向き、推進力を高めることも大切かもしれない。
 だけど、現代は成熟社会である。それも、熟々であるw

 熟した社会においては、硬直性、低弾力性が問題となる
 だろーから、リスク分散の意味も込めて、多様性の確保
 が最重要となるわけである。

 ってなことで、僕は「 統一 」を目指さない。

 統一しないがためには、例えば「 エコ 」と、「 環
 境破壊 」をどちらも存在させることを認めるということ
 でもある。これはまぁ、相当に苦しい立場ではあるし、い
 ろんな議論を呼びそうな話だ。これだけで、別テーマ
 しないといけないので、棚に置いておいて、話を進める。
 とにかく、私は多様性を残しておきたい。

 では、どんなあり方があるかと考えると、昔、連携の話で
 書いたようなのと同じ図が出てくる。




 要は、飛び回る個人がいくつかの団体に所属したり顔を出
 したりしながら、なんとなく情報共有を進めるという方法
 である。これを自分の中では渡り鳥モデルと名付けていた
 が、最近になってビオトープっぽいってことを知った。


 第二にビオトープには、「点」としての小さな生物生息圏
 という意味だけではなく、それらをたがいにネットワーク
 し、地域環境を「面」としておおっていくという戦略が織
 り込まれている。
 (中略)
 住宅街のあちこちに点在する公園、裏庭、ベランダ、小川
 などが、地域に残っている里山の自然環境などと生物の行
 き交う場所として、結びつく。専門家たちは生物の行き交
 う経路を「回廊」と呼び、そのネットワークに着目してい
 る。ビオトープは、閉鎖系ではなく開放系であり、小さな
 ものをしたたかに結びつけていく現実的な戦略なのである。



 この特徴だけではないのだが、つまりは、1つのコミュ
 ニティだけでは生態系は成り立たないということ。そし
 て、多様な生息場所を生物が渡り歩くから、いろんな生
 きものが生きて行けるということだ。


 たまにRoom-1984のことも「 単なるビオトーの1つ 」
 と表現するのも、このためだ。生態系の1つの場所で、
 それ以上でない。これらのコミュニティが重なるわけ
 じゃなくて、個人が渡り歩く形。そのときに必要なのが、
 各コミュニティの「 余白 」だったりするんじゃない
 かと、考えている。



 あ、

 これらは、仮説であって、仮留めの結論だってことは、
 言うまでもないことだけど、一応最後に言っとこう。