meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

やりたかったこととか、つらつらと。



 暗い気分に支配されると、どーにも、思考は過去へと遡る。原点、
 なのかなぁ、とも感じる。三重にいるときの気持ちについては、
 前に書いた記事で触れている。

 まぁ、なんだかんだ言って原点なのだろう。負の原点、とでも言
 うべきものなのだろうか。限りなく深いところでの、自己否定だ。
 この自己否定を肯定できない、ってなんだかわかんない状況でも
 ある。


 昔、そもそもなんでこんな環境になっちゃったのかなぁ、って考え
 たことがある。ちょうど、高3~浪人時代。その当時の少ない経験
 で「 う~ん 」と考えたわけだ。どうして、こんな家になったの
 か?って。 で、そのときのkimura少年が出した結論は「 生活空
 間 」だった。今、思うと、なぜそこに住む「 人 」に原因を求
 めなかったのか不思議だがw そこが僕らしいと言えば、僕らしいw

 コミュニケーションよりも、その入れ物に着目しちゃうくらい、う
 ちの間取りは変だった。( そして、その間取りが何の結果なのか、
 何を表現しているのかを後年になって知るわけだがw )だから、
 大学での生活空間論に絶望するまでは、理転でもして、建築に近い
 ことをやろうとしていた。そして、地理学を選んでいたのも空間に
 着目できるためだ。大学時代の幸福と、教授陣の研究への無関心、
 自分の怠惰によって、そんな問題意識は薄れに薄れた。そうしてで
 きあがったのは、伝説的な卒論ゼミのレジュメと10日間で仕上げ
 た卒論だった。

 もうちょっとマシな大学生活があっただろう、と思わなくもない。
 十分に満足できる内容でもあったのだが。




 今でも林業に反応しているのは、生活空間に対する問題意識の名残
 だったりする。ただ、関心の幅は家の中から、場所へと移りつつあ
 る。それは地域と言ってもいいだろうし、街といってもいいだろう
 し、メディアやtwitterとか言ってもいいだろうし、単に「 場 」
 とか呼ばれるものかもしれない。昔より抽象的になり、昔よりこん
 がらがってわかりにくくなっている。

 場所/ツールと人が相互に影響しあってること、そこに情報があっ
 て、コミュニケーションしている、、、そんなあり様を明らかにし
 てみたいのかもしれない。



 最近読んだというか、眺めた『 生命知としての場の論理 - 柳生
 新陰流にみる共創の理 』清水博 著にこんな文章があった。文脈
 が違うのかもしれないが、何かシンパシーを感じちゃったので、載
 せておいてみる。

 最初にある「 両極の自己の中心 」ってのは、自己中心的自己と
 場所中心的自己ってやつです。

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 それは、両極の自己の中心が、それぞれ相手の状態が自分の状態に
 整合的になるように相手を誘導し合うということです。その結果、
 二つの中心は一方で互いに相手の誘導の影響を受けながら、他方で
 それぞれ自律的に働くという形になるのです。この状態を自己中心
 的自己から見た場合には、場所がつくり出す場に引かれながら働く
 ということになります。また場所中心的自己から見た場合には、自
 己中心的自己の働きがもたらす力を、その内部に受けとめながら働
 くことになります。そこで自己中心的自己は場と整合的にふるまお
 うとし、場所中心的自己は自己の行為を包摂しようとします。

 この場合、厳密な意味では、両者が交互に働いていくことが必要で
 す。つまり自己中心的自己( 個物的自己、主語的自己 )の状態
 は速く小さく変わり、場所中心的自己( 場所的自己、述語的自己 )
 はゆっくり大きく変わるために、自己中心的自己が相当変化する間
 は場所中心的自己はほとんど変化せず、その後に場所中心的自己が
 変わるというように、交互に変化し誘導し合って互いに整合的にな
 っていくのです。

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 こんだけじゃ、全然わかんないっすね。。。でも、「 ああ、こう
 いうことが言いたかったんじゃないかな 」と感じてしまったわけ
 です m(_ _)m