meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

自分のまとめ的な何か。【 場所とメディア 】




 場所感覚、とでも言うのかなぁ。ここ最近の動きの中で、そういえば
 というか、何というか、結局今まで考えてきたことって、大学時代・
 高校時代から変わらないもんだったんだ、ってなことに気づきはじめ
 ている。ある意味、興味関心はずーっと同じだったのだ。

 もともと目指していたのは京都大学総合人間学部の生活空間論。入っ
 た瞬間に怠惰の波と大学授業への違和感とかを言い訳に、そういうこ
 とから遠ざかってしまったけど、ずーっと空間について考えていたの
 には違いなかった。住空間もそうだし、旅行をして感じるような地域
 の感じにも、何となく意識が向いていた。地理学研究室時代も、全く
 の怠け者ではあったものの、場所の感覚を見つめていたと思う。あの
 ころに影響を受けていたのは『 想像の共同体 』や『 オリエンタ
 リズム 』。祭りが生み出す共同体意識とか、地域がどう表現される
 かっていう「 地域イメージ 」をテーマにしようとしていた。その
 1つで景観をやろうとして、がっつりこける。どうしても景観要素が
 与える感覚ってのが気に入らなかったんだろう。路村だとか散村だと
 かの分類、歴史的背景にも興味が持てなかった。感覚は現在のもので
 もっと、その場で感じるものにピントを合わせたかった。

 壁になってたのは、なんとか定量的に・論理的に研究しようとしてい
 たからだと、今になって思う。「 原因があって結果がある 」って
 思考から離れなければうまく扱えない部分が多すぎたのではないか。
 そんな考えに行き着いた。 と、なると、非常に主観的な個々人の経
 験をもとに研究していかなくてはならない。トゥアンの『 空間の経
 験 』に近い。が、正直なんだか難しすぎて未だに満足に読めたこと
 がない。僕は馬鹿なのだろーか、とか思って、多分きっと馬鹿なのだ
 ろう。

 さて、そんなことを考えながら、なぜメディアとか情報とか言い出し
 ているのだろうか? 今の段階では場の感覚/経験の仕方ってのは、
 認知の仕方、じゃないだろーかと考えている。その認知を規定するの
 が、情報であり、メディアではないだろーかってことだ。場所と人の
 コミュニケーションの回廊でもありながら、そのコミュニケーション
 方法に影響を与えているのがメディアではないか?

 ってなことだ。

 結局因果関係から抜けられていないんだけど、その辺は勘弁してもら
 いたい。縁や偶然で捉えるには、もっと知るべきことを知ってからで
 ないと、扱いきれない。

 こうなってくると、自然、表現論にも足を踏み入れることになるんだ
 ろう。ドラマツルギーって言葉に出会いはじめて、『 都市のドラマ
 トゥルギー 』を見つけた瞬間注文したのもこのためだ。( ちなみ
 に積ん読状態w )ハード面でのデザイン、コミュニティをつくった
 りするソフト面でのデザインがあるとすれば、個々のリテラシーをつ
 くる面でのデザイン、っちゅうもんもあるんではなかろーか、とか。
 ここまでくると相当意味不明になるなw


 自分の興味が場所を中心に描かれているのか、情報を中心に描かれて
 いるのかは、正直、まだ曖昧である。今でも自分自身がニートになり
 たい欲を抱えつつ、@tomasu529 のやろうとしていることに興味を持
 ってそばで見ている。会社が立ち上がったら、遊びに行くに違いない
 のだ。興味関心が絞られてきているかといえば、そうでもない。

 そんでも、節目には何かを選択して進んでいくもんだから、こうやって
 拡散してきた興味・行動をまとめようとする。振り返ってみれば、1つ
 の線で結びつけることができたりすることもあって、それはそれでいい
 んだろうと思っている。

 最終的に、一番わかんないのは自分の未来だったりヽ(´ー`)ノ