最近、自分ではコミュニティって言葉を使わないようになってきている。もともとコミュニティの中で生きていけるような人間でもないから、いつかどーにかこの言葉じゃないものを探さなきゃならなかったんだとも思う。
最近ちらっと読んだ『 コミュニティを問い直す 』に、日本には都市的なコミュニティがない、って話が書いてあった。曰く、都市化はしていったものの、そこに持ち込まれたのは核家族や会社とかの「 都市の中のムラ社会 」だった、とか。全く同感、うんうんとうなづくしかない指摘だった。
人によって意見は様々あるんだろうけど、僕はムラ社会とか言われる閉鎖性の強い、しがらみの多い世界では生きていけない性格になってしまっている。もっと言ってしまえば、そういうのが嫌いである。息苦しくって仕方がなくなる。数年前までは、こういうムラ社会が否定されて都市ができてきたんだ、とか考えてたんだけど、それがどーも違うようで。。。都市にいようが田舎にいようがおんなじだな、と気付いたのは1年ちょっと前かな。わりと都市と田舎ってのは、遠いようで近いと思っている。
そんなことを感じていたから、金山でルームシェア「 Room-1984 」をはじめたときに宣言したのは「 硬直しないコミュニティ 」だった。Room-1984自体がコミュニティになってもいいんだけど。そのコミュニティの上を流れていく「 渡り 」な人たちがいる方がいい、なんてことを考えていた。その後まもなく、「 ビオトープ 」の考え方に出会って、今ではRoom-1984はビオトープの1つと言うようになっている。
【 前回のNetworkSession お陰様でわりと色んな人が集っている 】
コミュニティを閉鎖性、ビオトープを開放性とラベリングしてしまうとどえらい非難の声が聞こえてきそうなので、そうは言わない。ただビオトープという言葉が「 他のビオトープとビオトープ間の渡り 」を前提に含んでいるのを気に入っているのである。
ちなみにビオトープってのは、学校のグラウンドとかにある池とか木が生えてる一角みたいなやつ。その地域の生物が生息できるような場所をつくっておきましょう、って感じの言葉だ。ビオトープがおもしろいのは、1つでは成り立たないところ。例えば学校の校庭にトンボがいたとして、そのトンボの飛んでいける範囲にもう1つのビオトープがないと結局生物の多様性は維持されない。いくつかのビオトープが地域に点在することで、その間を昆虫とかが行き来することで、生態系を形づくる戦略なのだ。この、行き来するところが好きで。
一所懸命、その土地に根付いて、そのコミュニティに入り込んで生きていく美学のようなものを持った日本人からすれば、「 渡り 」なんてあんまりよろしくないのかもしれない。そんでも、他ならぬ自分自身が自由に動きまわりたいのだから、ビオトープ的な環境をつくり出していかなくてはならぬ。コミュニティとコミュニティを動き回るための回廊をつくっていくこととか、動き回ってても受け入れられるような姿勢を広めることとか。そういうのが相まって、やっと多様な生き方が認められるのかもしれない。
無縁社会とか言われるけど、個人的には人のつながりとか、コミュニティってのが不足しているようには思えない。むしろコミュニティのあり方を、もう少し多様な人が生きていけるように、もしくは、僕が生きて行けるように、組み替えていくことが必要なんじゃないかなぁ、とか、考えつつ。
コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来 (ちくま新書)
- 作者: 広井良典
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