まさか、土木作業やることになるとは思ってなかったw 土日
使って伊賀に来て、洗ったり、切ったり、運んだり、砕いたり、
汗まみれになって作業をしてるんだから、客観的に見れば本当
に不思議な集まりである。
これでホヅプロの活動に参加するのは3回目。「 島ヶ原に行
った 」で数えると、10回弱になるだろうか。「 通う 」
ってのは日常化することだなぁ、と感じる。ひとつひとつの動
作・風景に慣れが見え隠れする。新しいメンバーもいるけど、
もうだいたいが「 いつか見た顔 」で、挨拶するだけで和む。
おそらく、各自が伊賀に「 来る 」大変さを理解しているか
ら、挨拶にはお互いに賞賛しているような響きが含まれる。
【 竹を運んだ後のグロッキーな感じ 】
回を重ねるごとに、気づくことも増えるし、深まる。新鮮さが
なくなっていくことと、学びや気づきは無関係なのだと思い知
った。いや、まだまだ、新鮮さをなくす程通ってないからかも
しれないのだが (・_・;)
プログラムはちょっとずつ作業にシフトしていた。大阪での出
展( 出店? )に向けての作業と、木工作業場づくり。こう
やって手を動かして経験すると、細部を丁寧に味わえる。日に
焼けて、使い古された木の匂いとか、コンクリートを砕く辛さ
とか。ある意味、名古屋でゴミ拾いをしたときと同じ感覚だ。
自分が働きかけるからこそ、見えてくる日常の景色があるよう
な、そんな感覚。
こういう視点の変化はどんなことにも共通するんだろうな。そ
して、変化した視点は、自分のレパートリーに追加されてゆく。
どんどん、より深く、身の周りの世界を味わえるようになる。
この目線。この見え方。この方法。この関わり方。
経験を通してつくっていく、自分なりの視線。
それを受け止めて、変わっていく場所。
「 生きられた世界 」っていうのは、こういうふうな営みに
よってつくられていくのかなぁ、と感じる。
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実際、ブラウワーは、何をなすべきかについて、「際限のない
欲求がもたらすであろう、本物性の際限のない喪失に対する最
良の武器は、場所のセンスの再生である」と明言している。そ
れがどうすれば達成されるかについて彼は明示していないが、
場所への愛着の喪失と本物の場所づくりの能力の衰えとが、そ
の喪失の現実の内容であることは確かである。そして、もし、
私たちが私たちが無視したり耐え忍んだりする必要のない環境
を創造しようとするなら、そのような愛着と能力の再生が必須
である。さらにいえば、テクニークとは無関係のなところに、
これを実行する可能性があるように思える。なぜなら、場所の
センスは本質的に科学の対象以前のものであり、相互主観的な
ものだからだ。
( 『 場所の現象学 』 エドワード・レルフ )
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参加するほど、名古屋からの手の出しづらさが嫌になる。社会
人メンバーの多い名古屋チームがこれからどう関わっていくの
か。考えつつ、自然な流れに身を任せつつ、ゆっくりと仕掛け
てゆこうかな。