meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

コミュニティ と ソーシャル

 「 ソーシャル 」という言葉について考え続けてきていた。最近では、ソーシャルな分野、NPO社会起業家などがもてはやされてだいぶと定着してきたように思う。と同時に、TwitterFacebookなどのSNSも「 ソーシャル 」とラベリングされている。この2つのソーシャル、前者は社会課題の解決を目指し、後者は人と人とのつながり方を組み替えていく。違う意味でありながら、同じラベルをもっていることには何かの伏線があるように思えてならなかった。

 
 一方で、「 コミュニティ 」という言葉がある。コミュニティビジネスとソーシャルビジネスは、かなり近い意味で用いられている。コミュニティビジネスは一般的に「 地域課題解決 」または「 地域資源活用 」を意図しているとされる。ソーシャルビジネスが社会課題解決であるとすれば、それほど大きな違いはないだろう。解決すべき課題の規模感の違い、ニュアンスの違いぐらいで考えている。
 
 いや、考えていた。
 
 これから書くことは、妙に突飛で、大変な誤りを含むだろうから、その辺をさっぴいて読んでみて欲しい。
 
 もともと、日本に「 ソーシャル 」なんてあっただろうか?そこがまず第一の疑問点である。コミュニティ、というか、語感は悪いが、ムラ社会はあったんだと思う。それは、たぶん、すごく内輪の連帯で、出る杭は打たれ、内輪の利益を確保し、内輪の構成員はその構成員同士に対して責任を負う。そういうものだったりはしなかっただろうか?連帯意識は強く、セーフティネットとしてとても優れたチカラを持つんだろう。
 
 ムラ社会の中に生きてきた日本人は、ムラの内部に責任を持つ。それは、現代で社会的責任( Social Responsebility 企業のCSRのSRの部分 )と呼ばれているものとは違うのではないだろうか?ムラ的責任をCR( Community Responsebility )とすると、寄り合いに出席するのはCRで、選挙権を行使するのはSR、と区別できるのかもしれない。
 
 えーっと、つまり何が言いたかったかというと、日本にはソーシャルがなく、ムラがあった、のではないか、ということだ。ムラは目に見える範囲で責任を負う。何とか派閥や、町内会では、内部の利益や内部で生きていくために必要なコトがなされる。ムラは誰かが外に出ることを想定した構造にはなっていない。人のまとまりであるからして、本質的に排他性を含む。
 
 その一方で、ソーシャルな関係/つながりが出来はじめている。今まで僕は、この「 ソーシャル 」を甘く見積もっていた。それはコミュニティの延長、ムラの変形みたいなもんだと捉えていた節がある。が、どうにも、そうでもないような気がしてきている。それは、全く新しいあり方なのだ。
 
 感覚的な話になるが、多くの他人の中の、1人の信頼できる仲間とつながるのがコミュニティ/ムラ的であるとすれば、ソーシャルは多くの他人をまるっと仲間とみなしてしまう。そこでは、友人はいないけども、誰もが友人となるような気配を得る。そういう関係性だからこそ、ソーシャルの中で私たちは、全体に対しての責任を負う。ムラのような密着した助け合いは行われず、それぞれがある程度の独立性を持つ。困ったときには多くの他の中の誰か一人が助けてくれるかもしれない可能性に頼る。いつも助けてくれる隣人はおらず、気まぐれに助けてくれる近くの人がいる。だから緊急度の高い問題、例えば今回の震災のような事態に対しては、非常にエラーが多い対応をする。エラーは多いが、集団が柔軟に流れながら、集合知的に最適解を見つけ出す。
 
 ソーシャルって、そーゆーもんではなかろうか?なんて思ったのだ。ほんで、ソーシャルビジネスも、ソーシャルネットワーキングシステムも「 まだ日本にはないソーシャルな関係性をつくる 」って点で共通するんじゃないか、と。ほんでもってソーシャルビジネスとコミュニティビジネスの決定的な違いは、「 ソーシャルをつくるか、コミュニティをつくるか 」にあるのではないか、と。
 
 
 まぁ、言ってしまえばどっちも極端なハナシで、みんなこの2つの中庸を目指しているんだろうな。いや、止揚なのか。これまでずっと、人は利便性を求めてきたように見える。それは移動手段の車であったり、家事を代行してくれる洗濯機であったり。これらハード面での利便がみたされて、次はソフト面。人間関係や心の利便性を高めていこうとしているのかもしれない。ソフト面を「 利便 」としてしまうことに違和感を感じる人は感じたらいいと思う。だけど、着実に、世の中はちょっと淡白で、ドライで、便利で、それでいて、意外と善良で、信頼に溢れたあり方にシフトしているように感じている。
 
 
 

 

つながりの作法―同じでもなく 違うでもなく (生活人新書 335)

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