meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

曖昧なものを扱うための方法としての論理

 

 先日はエンドゴールの平日勉強会にお邪魔してきた。ほんとは毎回行きたいのだが、日程が合わず、2~3ヶ月に1回ぐらいの割合で顔を出している。この「 たまに行く 」ペースが丁度いい。忘れていた雰囲気を思い出すとともに、何かしらの新鮮さを得て帰ってくる。
 
 会の初めは「 今日、どんな目的でここに来たか? 」を問われるのがお決まりになっている。初っ端は、ほぼ100%、僕があてられる。だから答えを考えておくことが多い。今回の目的は「 曖昧なものを扱うための方法を学びに来た 」というもの。
 
 論理的なものが重要視される時代から、曖昧なものが重要視される時代へと移行しつつある。その中で、曖昧性を記述したり、分析したり、コントロールする方法が必要だと思っていて、脳や心の話はそういう曖昧性を扱う最先端の領域だろう。
 
 全くわけのわからぬ話で、ほんとにこれを言ってたら、「 一体何奴が来たんだ 」と思われたに違いないw だが、僕にとっては曖昧性はとても厄介な問題で、それは芸術であったり、美であったり、文化であったり、捉えどころがないけど本質的で、さらに重要性を増していく。論理では見えそうもない価値を、どう捕まえるか。意外と真剣に悩んでいたりもしていたのだったw

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【 最近自分で書いてて一番笑った落書き。世界ってなんだよwww 】 

 
 こういうフィルターを持っていると、関係のなさそうなテーマでも引っかかることが多い。会の最中、僕が言葉とイメージについてしつこく聞いてしまったのもそのためだった。
 
 心を扱うに際して効果的なのは、言葉、口癖を変えることである。そんな話が頭に入ってきたとき、心は曖昧性に、言葉は論理的なものに置き換えられた。
 
 つまり、曖昧を扱うにも論理が必要となる。
 
 論理で捉えられない部分を曖昧とするならば、矛盾した言説である。しかし、なんだかもっともらしくもある。非常にあったりまえで申し訳ないぐらいなのだが、論理を排除することが曖昧への近道ではないってことに、気付いたのだった。なんか、当然過ぎてしょぼーんな感が否めない。。。でもしょうがいないよね(´・ω・`)
 
 ここ半年ほどかな。いかに曖昧なものを捉えるか、と考え続けて、ひたすらに科学や論理を離れようとしていた節がある。「 感覚 」が重要だと思ったり、よくわからないものを好んだり(笑)それは全く間違ってはいないのだけれども、明晰にして判明な概念を軽視しすぎていたのではないかと。
 
 
 人は言葉からイメージを創り上げて、脳に焼き付けていくのだそうな。プラスの言葉を使えば、プラス思考に。逆もまた然り。明晰なものを使って、曖昧性を含むイメージをコントロールする。いいイメージを思い描くことで、焼き付けるイメージをコントロールする方法もあるようで、整理すると
 
 ○ いい言葉 → いいイメージの想起 → 脳に記憶される
 ○ いいイメージを妄想 → いいイメージが記憶される
 
 ってなるのかな。だから、最終的にはイメージという曖昧なところで動いていて、そいつを扱うための言葉なんだという気がしてきた。
 
 
 
 そもそも世界は曖昧である。それを扱うため、コントロールするための論理ではないか。論理は曖昧にアプローチするための1つの方法であったのではないか。こんなことに1人で感動しつつ、うわーっと頭を回していたのでした。
 
 わっかりにくい文章になってしまって、申し訳ないm(_ _)m ちなみに、平日勉強会のテーマは「 恋愛 」でしたwww
 
 
 
 
 
 
 

 

新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)

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