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感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

義援金か活動支援金か、が気になった理由

 できること@名古屋が寄付ワークショップをやるってことで、最近寄付について考えることが多くなっている。そんな中で、4月ぐらいから1つ疑問になっていることがあった。なぜ、我々は阪神大震災で「 義援金 」と「 活動支援金 」の違いを学ばなかったのだろうか? ってことだ。

 今回の震災でもわーわー騒がれた寄付の問題。入谷さんの以下のブログ記事がバズったのを筆頭に、みんなが寄付の行き先を知りたがったのが印象的だった。多くのメディアでも、「 義援金 」って言葉の意味がごちゃごちゃになって使われてたような気がする。

irritantis.info

 阪神大震災のときもこうだったのだろうか?
 当時小学校4年だった僕は、そのときのことを覚えていないが、ここでは、阪神大震災のときには寄付の種類について騒がれなかったっていう前提で書いてみる。

 なぜ、阪神大震災では「 義援金 」と「 活動支援金 」の違いが取り沙汰されなかったのだろうか?以下の3つの要因を考えてみた。論考や統計をとったわけではないので、あくまで仮説だ。誰か、検証してみて欲しい。


1)阪神大震災時は寄付の受け手が少なかった

 一番わかり易いのが、これじゃなかろうか? 95年当時は、NPO法人がなかった。NPO法の施行が98年。震災の流れも受けて各地でNPOが立ち上がったのだ。ボランティアへの馴染みも、今ほどではなかっただろう。寄付をしようにも、受け手は赤十字や赤い羽根とかであれば、そもそも「 活動支援金 」という選択肢はない。

 そう考えると、今回の寄付への疑問は多くの市民活動が認められていったから起こったものとも捉えられる。


2)マス権力への信頼がなくなった

 95年から2011年にかけて、日本の経済は停滞から低成長、もしくはマイナス成長時代に転換していった。企業は疲弊し、食品偽装をはじめとして、大企業への信頼が失墜する。ひと昔前ならば「 この企業の商品なら大丈夫 」と思ってお金を出したであろう消費者が、今では「 どうなんだろう? 」と説明を求めている。

 寄付についても同じだろう。「 お金を出した!ハイ、終わり 」では納得がいかなくなってきているんじゃないか? それが大企業であろうと、マスメディアのオススメであろうと、もう、信頼できないのだ。寄付という行為が、その場で完結するイイコトでなくなってきているのかもしれない。

 そして、マスへの疑問を引き起こしたのはインターネットだろう。


3)インターネットによるつながり意識の変化

 これはかなり漠然とした話になる。

 95年から2011年の間の大きな大きな変化は、まさしくインターネットだろう。ネット系の広告会社に務めていたこともあるので、こう感じるのかもしれない。どうにもコヤツは断絶を嫌うようなのだ。広告で言えば、テレビCMは派手に打って、さあ、どれぐらい影響しただろう?ってのははっきりしない。ネットはそこを暴いた。クリックっていうシステムで、どこにどう仕掛けたら、どれぐらい効果があがるのかを明確にしはじめたのだ。

 これは広告業界ばかりの話ではない気がしている。SNSにしてもそうだ。断絶するためのコンテンツより、つなぐためのコンテンツの方が明らかに多い。「 ネットでつながっている 」その感覚が寄付にも影響しているのではないか? このお金の行き先はどこだろう? その効果はどれぐらいなのだろう? そんな疑問が生まれるような意識が醸成されてきたのかもしれない。

 

 

 何にせよ、自分の行為のその先に想いを馳せるようになった、というのはイイコトだと思う。「 どこに寄付したらいい? 」って聞くのは、そのお金の使い道に自分の責任とか想いが乗ってるってことだ。1つ無思考から脱した証拠だろう。

 ただ、残念なこともある。選挙でわかるように「 だれに投票したらいいんだろう? 」という疑問から先には、用意された答えなどないということだ。そこから先は、個々人の知識、価値観で切り拓くものだ。この壁が、けっこう高くて越えづらい。

 

 

 

寄付白書〈2011〉

寄付白書〈2011〉