meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

【本】 死と身体 コミュニケーションの磁場


【 『死と身体 コミュニケーションの磁場』 内田樹 なんか白黒で撮った 】

 この本も医学書院シリーズケアをひらくの1冊である。いやはや、いつの間にやらこのシリーズを4冊も読んでしまったことになる。『 技法以前 』に『 べてるの家の当事者研究 』、そんで『 物語としてのケア 』と来て、ここにたどり着いた。ちなみに今、読んでいる『 発達障害当事者研究 』もこのシリーズの本である。なんなのだ、このヒット率w シリーズの企画者には感謝せざるを得ない、ってとこだろうか。
 そして、内田樹氏をこのシリーズにのせる人選にグッとくる。 “もちろん私は医療も介護も福祉も、どの領域についても門外漢である。” と語る内田さんを、ある意味でケアの世界に引きずり出した。うん、グッジョブだ!b(゚Д゚) この1冊が加わることで、さらにさらに深みを増す。そんな本だと思う。

 内田樹氏と言えば、軽やかな文体に鋭い指摘。広く深い知見を駆使して、思いもよらなかった角度からのパンチを繰り出す論客である。これまで読んだ『 街場のメディア論 』『 ひとりでは生きられないのも芸のうち 』『 街場の現代思想 』の3冊では、簡単で明快、読みやすくおもしろいという印象を持っていた。遅読の私でも、ざくざく読める。でも、ううむ、と唸らせる。
 だが、この本はよい意味でそんな印象を裏切ってくれた。30ページにわたる “わかりにくいまえがき” はその名のとおりのわかりにくさで、初っ端から読者を迷路に投げこむ。「 えーっと?どういうことだったっけ? 」とまえがきを見直してもわからないぐらいだった。
 内容に入れば、さらに迷宮へと進むことになる。連続講演の記録なので、文章はわかりやすいのだが、“原稿を用意しないで来て、その場の気分で話”しているためか、話は拡散する。身体の話から、武道の話、死に葬礼、幽霊に、教養に、レヴィナスに、ニーチェに。。。面食らう。まるで体系的にまとめられていない。これほど明快でない内田氏は意外であり、だからこそ思考の道筋を追う楽しさがある。
 “教養はあればあるほど収拾がつかなくなるものです。というのは、教養は自分自身知のシステムの絶えざる「書き換え」「ヴァージョンアップ」を要求してくるからです。” まとめられていないからこそ、頭を使う。簡明な答えではなくて、深遠な問いを投げかけてくる。それは「倫理」や「コミュニケーション」や「共生」とかに関わる、なんか人間としてすごく大切なものの、ような気がする。

 ある程度内容をまとめて書きたいのだが、すんごく難しい。。。(;・∀・) いくつか言葉を抜き出してお茶を濁そう。気になった人は読んでヽ(´ー`)ノ そんで、この本がケアをひらくの1冊であるってことについて、一緒に考えてみて欲しい。


 “コミュニケーションが適正に成立することが困難であるからこそ、わたしたちはコミュニケーションの成立を切望するのであり、そのために、コミュニケーションはそのつどつねに誤解の余地があるように構造化されているのである。”

 “ニーチェが「惰眠」となじったのは、「何が善であり悪であるかを、自分はあらかじめ知っている」という人間の賢しらである。”

 “息づかい、リズム、手触り、テキストの身体性を経由して、そのあとに意味性に到達する。すぐれたテキストはそういうことを経験させてくれる。”

 “「先の先」で動く人間というのはおそらく相手と違う時間の流れを進んで、先の時間にいっているのです。ですから、絶対に勝つ。絶対に勝つに決まっている。「勝ったり負けたり」するものは武芸とは呼ばれない。武芸はかならず勝つ。構造的に勝つ。”

 “わたしは、「他者というのは共感可能であると同時に共感不可能である」という矛盾した命題を立てて、話をごちゃごちゃにしないと、どうもうまくいかないような気がするんです。”

 “われわれが排除するものは、じつは「いてほしいもの」なんです。「外部に追い出されたもの」という資格で、「そこにいる」ことが必要なんです。存在しないというかたちで存在する。否定されるというかたちでそこにとどまる。迫害とか排除というのは、本来そういうものなのです。”

 はい(笑) たぶんこのブログ見てる方なら、楽しめますヽ(´ー`)ノ 



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