meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

3月11日だから例にもれず右にならえで1年前を振り返ってみる。


【 この曲がラジオから流れてきたときには、グッときた。好きなんだよなぁ 】

 今日は何をするにも震災がつきまとう日だ。とりあえず震災関係のイベントには行かないでおこうと決めていた。なんで、わりと暇になって、身辺整理をしていた。地震が起こった14時46分には、山下達郎のサンデーソングブックを久しぶりに聞きながら、洗濯物を干してた。1分間の黙祷は、やっぱり何となくしてしまった。黙祷するときの凛とした沈黙の雰囲気は好きだ。
 番組冒頭で「 日本が大同団結して困難に立ち向かわなきゃならない 」的なことを言ってて、わりとびっくりした。山下達郎ってそういうこと言う人だったっけ?「 大同団結 」って言葉が何かファシズム的なものを思わせて、なんだか少し怖くなる。そういうことじゃない。一致団結するばかりが正解ではないはずだ。視野を狭めてはいけない。

 どういう気持でこの日を迎えるか、3日前ぐらいから悩んでいた。思いっきり向き合うか、華麗にスルーするか。震災に関して「 何もしない宣言 」をした僕である。無視するのもひとつの手だったんだろうな、とも思う。でも、ま、1年ってのはいいタイミングである。改めて1年前のブログとかを確認してみることにする。なに書いてたっけ?

 震災後、最初の投稿は3月14日「 震災なのに、行動しないの? 」だ。ちょっと適当に引用してみる。

 震災関連のニュースを見ていると、もう何がなんだかわからない状況になってきている。とにかく水が足りない、電力が足りない、灯油が足りない、と、本当に豊かな日本の話なのだろうかと思ってしまう。と、同時に、ここ3日ぐらいずーっとおんなじようなニュースと映像に触れているため、この危機を「 見慣れて、うんざり 」もしてしまっている。

 「 とにかく、行動を! 」と感じていたのも束の間。いろんな人の主体性を引き出し、引き出しすぎたんじゃないかとさえ思えてしまうような気もしている。寄付ができるところもばんばか立ち上がり、どこに寄付していいやらわからず、少しばかり船頭多くして船、山に登りかけている気も、実は、している。

 何かした方が「 いいに決まっている 」雰囲気があるから何かすることをためらっている、とも言えるかもしれない。「 いいから、いいじゃん! なんでしないの? 」は社会貢献をしようとする人が陥りやすい主張。それが本当によいかどうかを見極めようとする人がいてもいいはずだ。今回、僕は正確な情報が入らないことや、役立ちたいけどお金も力もないこととかとあいまって、現段階では普通に生活しようと思ってます。反社会的だし、非国民w そんな茨な道をなぜ選ぶのかも、正直自分でもよくわかってないんだけどねぇ(笑)


 このとき既に「 何もしない 」を選択すると言っている。感覚的に。振り返って言えば、もうひとつ目的をもった選択だった。雪崩をうって行動する人たちの中で「 何もしなくてもいいんだよ 」という位置を築くためでもあったのだ。先陣切って、何もしない隊長をひとりで勝手にやってたわけだw

 さて、次の記事は3月17日「 船頭多くしたまま、震災救援できないのかなぁ 」

 なんだかんだ言って、「 震災 」が気になって仕方がない日々を過ごしている。原発・停電騒動も未だに終着点が見えず、なんだか殺しても殺しても生き返るゾンビと戦ってるぐらいな精神的消耗の中にあって、、、つまりは、疲れ気味だw

 多様化、多極化、分散型の流れにあって、雨後のタケノコのように「 アクション 」がにょきにょき出てくるのは自然なことだと思う。個々それぞれが、自分の良心に( あるいは、穿って言えば良心の呵責に )従って行動を起こしている。船頭は多く、どこに寄付していいのやら、混乱状態、群雄割拠的な様相を呈してはいる。
 そんなんなもんで、この乱世をおさめようとしたり、「 多頭 」に横串を刺そうとする動きも出てきていて、それはそれでいい自浄作用なんだろう。やはり緊急時には軍隊的、ピラミッド的、もしくは、統一/統合的な体制を組んで最適な統率を行うべきなんだろう。

 僕個人的な意見としては、この救援体制も出来る限り多頭体制のまま、船頭が多いまま、進められればいいと思っている。それは、多くの支援主体があった方が、マイノリティへの気配りがきくからだ。行政の全体的支援も大切だが、NPOがアレルギー体質の人、ホームレスの人、妊婦さん、幼い子供を抱えるお母さん、障害をもった方、などにピンポイントで支援することも必要不可欠である。
 但し、みんながバラバラに動くことにはエラーがつきものである。多極分散の最たる例、インターネットの世界と比べて考えると、エラーは避けられないような気がしてくる。インターネットはある意味で「 エラーを許容する 」構造で成り立っている。更新スピード、通信スピードの速さなどがエラーの発生を「 まぁ、いいじゃない 」と許している、と、僕は理解してる。
 となると、もちろんのことながら、ミスが許されない状況下にて意思決定者なく行動してしまう多極分散的な体制は、適さない。時限爆弾の赤と青の導火線を目の前に、平社員ばっか10人ぐらいが並んで、しかも相互にコミュニケーションとれてない、ってなもんだ。誰か1人が先走れば、命運はそいつの肩にかかる。


 このときには若干落ち着いてる。関心は、いかに他局分散的に動きながら、集合知的な方法でもって、支援の効果を最適化するか、、、みたいなことを考えていたようだ。その限界値を自分で見出していながら、なお考えている。そういうのがこれからの組織のあり方だったり、社会のあり方につながってくんじゃなかろうか、って思ってたからだ。結局、統一的な管理体制になるのであれば、時代が逆行していくよ
うな、そんな感じがしていた。

 そして、最後に3月26日の記事を見てみよう。

 @takagengen さんの2011/3/21のtweetが秀逸であった。

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 「祝辞」12・いま「正しさ」への同調圧力が、かつてないほど大きくなっています。凄惨な悲劇を目の前にして、多くの人たちが、連帯や希望を暑く語ります。それは、確かに「正しい」のです。しかし、この社会の全員が、同じ感情を共有しているわけではありません。

 「祝辞」14・幾人かの教え子は、「なにかをしなければならないのだけれど、なにをしていいのかわからない」と訴えました。だから、わたしは「慌てないで。心の底からやりたいと思えることだけをやりなさい」と答えました。彼らは、「正しさ」への同調圧力に押しつぶされそうになっていたのです。

 「祝辞」17・「正しさ」の中身は変わります。けれど、「正しさ」のあり方に、変わりはありません。気をつけてください。「不正」への抵抗は、じつは簡単です。けれど、「正しさ」に抵抗することは、ひどく難しいのです。

 「祝辞」19・わたしは「正しい」から寄付をするのではありません。わたしはただ寄付をするだけで、偶然、それが、現在の「正しさ」に一致しているだけなのです。
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 この「 祝辞 」というのが何を意味しているのかはわからない。卒業式かなにかをtsudaったものなのだろうか?それにしても、このblogでも書いてきた違和感が見事に表現されているようだ。「 正しさへの同調圧力 」この言葉に尽きるような気がしてならない。
 「 できること 」があちらこちらで議論されているが、そもそも、やらなきゃならないわけではない。これは大前提である。誰が「 やらない人 」を責められようか?

 本当に過激な話であるが、例えばこの危機に際して、「 救済するべきでない 」とした意見が出たときに、受け入れる度量はあるだろうか? その意見を出した人に傾聴する姿勢はあるだろうか? そこまで行かずとも、「 なぜ国が保障する必要があるのか? 」ぐらいは感じている人もいるかもしれない。


 今見てもひやひやするような過激なことを書いているわけだが(;・∀・) そんでも、確かにこのスタンスが僕の姿勢であることには変わりはないな。イイコトを書いてるなぁ、と自画自賛しておこう。

 ヽ(´ー`)ノ


 そんで、震災から1年が経った。復興が進まない、ボランティアが少ない、寄付が集まらない、被災地に雇用がない、などなど。たくさんの問題は残っていて、それらを解決していくことに何ら異論はない。けど、正しさはそこだけにあるもんでもない。人によって、状況によって、変わってゆくもんだろう。やりたいこと、と、求められていること、の兼ね合いをつけながら、自分なりの関わり方で付き合えばいいんではないだろーかな。



 m(_ _)m