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感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

【本】下り坂では後ろ向きに


【 下り坂では後ろ向きに 静かなスポーツのすすめ 丘沢静也 】

 マニアックな本かもしれない。初学者(?)にはオススメできない、何かを一周まわってきて辿り着く本じゃないかと思う。ちゃんと読むためには、それなりの「 考え方 」が必要な本だ。ただ、それだけに、読める人にはとてもおもしろいことを考えさせてくれる。
 作者の丘沢静也さんは知る人ぞ知る翻訳者じゃないだろうか。僕が読んできた中では、ミヒャエル・エンデの『鏡の中の鏡』、ケストナーの『飛ぶ教室』、ニーチェの『ツァラトゥストラ』、エンツェンスベルガーの『数の悪魔」の訳をされている。ドイツ文学者であり、ドイツ語の翻訳者だ。翻訳された文章は、単純で明快。短文で、歯切れがいい。丘沢さんの訳が好きで上記の本を読んできた、と言ってもいいぐらいにファンである。ケストナーの『ファービアン』も、できれば丘沢さんの新訳で復刊されるのを願いたいぐらいなのだ。
 そんな丘沢さんの書いたエッセイのような本だから、もちろん、文章はカンタンである。軽快で、ページ数も少ない。誰が読んでも楽しめるような軽さだ。そんで、それが侮れないのだ。 


 タイトルにある通り、この本は運動習慣病と自称する作者が「 静かなスポーツ 」をすすめる本である。だらだら走る、のんびり泳ぐ。結果を求めず、目標を持たず、時間を区切って静かにゆっくりスポーツする。スポーツの語源は「 気晴らし 」なのだ。競技スポーツの方が、スポーツの特殊な一部に過ぎない。頑張らない。ゆっくりでいい。すんごい脱力系であるw
 そんな静かなスポーツを軸に、思想というか、ある種の考え方が織り込まれている。引用されるのはヴィトゲンシュタインニーチェゲーテなどなど。難しくはない。ただ、哲学者の言葉にはきちんと考えさせられる。例えば「 読書する怠け者を、俺は憎む 」と言ったのはニーチェだ。体を置き去りにした思想を嫌ったニーチェに、今の生活を反省させられる。僕にも静かなスポーツが必要である。

  他動詞の感覚でものを考えるとき、「私」(の意識や精神)が、私の体の主人だと勘違いする。いろんなことをコントロールできると思ってしまう。だが、意志はそんなに偉いのだろうか。

 体をないがしろにしているわけじゃない。だけども、頭ばかりが大きくなる時代に生きているんだと思う。ニーチェの時代もそうだったんだろうか? 努力も意志ならば、成長意欲も意志だろう。「 何かしたい! 」って気持ちに従う体は、物言わぬロボットではない。そういえば、体の言うことを意識して聞いてみたことはあるだろうか? 体の自由にさせたことはあるんだろうか?
 こういう話を読むたびに、温水プールに行きたくなるのは僕だけじゃないと思う。のびのび体を動かす機会なんて、、、ねぇ。そうそうないわけだ。うーん、毎日肩が凝るわけだわw (;・∀・)



 そして、静かなスポーツはたんたんとする。毎日が同じように、ルーティンで行う。丘沢さんはマンネリズムをすすめている。変わらない大切さを意識するというよりかは、もっと軽い。変わらなくてもいいじゃない? といった具合のニュアンスじゃないかな。やっぱり脱力系である。でも、その脱力の裏側にある考えには説得力がある。「 生きる意味 」より「 生きること 」の方が重要だ。日常を日常であっていいと認めていく。

 人間は希望がなければ、生きていけない。しかし、希望だけでは生きていけない。ゴールや結果ばかりを気にせず、日常のこまごまとした営みを丁寧にやりつづけ、日常の雑事をみがくことが、人間の日常をささえ、人間をささえているのではないか。

 ゴールや結果、目標などを意識する営みが丁寧でないと言っているわけではないだろう。ゴールや結果と同じように、日常を扱ってみたらどうだろうか、って提案なんだと思う。こんなことを書きながら、スローライフとかロハスとかの匂いを感じさせないから、丘沢さんはおもしろい。立場は小市民。怠けもするし、愚痴みたいなことも書いている。( 読み手としては、その辺は軽くスルーヽ(´ー`)ノ )
 輪るピングドラム的に言えば「 きっと何者にもなれないお前たち 」みたいなもんだろうか。だからこそ、どこか多くの人の道しるべになっている気もしてしまう。

 意味はない、というのが人生のデフォルトである。本人が、天国または地獄で、自分のノートをパラパラめくって、なにか意味を読み取ることがあるかもしれない。あるいはそのノートを、お節介な他人がたまたま読んで、なにか意味を読み込むことがあるかもしれない。どちらにしても、本人が死んでからの話。生きているあいだは、プロセスしかない。
 できることなら、なにかの意味にまとめたりしないで、プロセスのまま放っておいてほしい。私は散骨を望んでいるのだが、もしもお墓に閉じ込められるなら、こんな墓碑銘をリクエストしようかな。「意味はなかったけれど、楽しかった」

 この軽さ。かろやかさ。重い哲学、アツイ生き方論を感じさせない。サラッとしてて、すっと入り込んでくる魅力を持っている。意味はなかったけれど、楽しかった。まさにそうありたいもんだと、痛烈に思う。そして、たくさんの人がこうあって欲しいと思う。誰もが英雄にはなれない。ならば、小市民としての過ごし方があるはずだ。

 かいた汗はすぐにシャワーで流す。プロセスが楽しくて気持ちよければ、汗を結晶させる必要はない。

 うん、おもしろいw ここまでしっかり力を抜いている人は、そうそういないと思う。



m(_ _)m


下り坂では後ろ向きに――静かなスポーツのすすめ

下り坂では後ろ向きに――静かなスポーツのすすめ