meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

【本】驚きの介護民俗学


【 驚きの介護民俗学 六車由美 】


  医学書院シリーズケアをひらく、6冊目である。どんだけこのシリーズが好きなんだ、とか言われそう
 だな。でも、今回は送別会のときにプレゼントされた本だ。自分で選んだ本じゃない。こんな機会でない
 と、高齢者苦手な僕が「 介護 」の本を手に取ることはないだろう。介護を軽視してるわけじゃないん
 だけども、どうにも、どうにも、、、そういうのは苦手なのだ (;・∀・)

  さて、この本。ざっくり言ってしまえば「 民俗学の研究者が介護の現場に入り込んだら、知の宝庫だ
 った 」って内容だと思う。よく考てみりゃ、そりゃそうだ。戦前・戦後、様々な時代を生き抜いてきた
 方が沢山いるのだから、毎日がフィールドワークみたいなもんだろう。認知症だろうが、要介護だろうが、
 記憶はどこかに染み付いている。大正期の生活、戦後復興期の生き方、文化や習慣が介護施設利用者から
 瑞々しく語られる。事例も豊富で、なるほど、そんな時代にそんな生活感があったのかとも驚かされる。

 「味噌漉し奥さん」とは、月給取りの奥さんのことを言ったのだそうだ。「味噌漉し」とは、味噌を漉
 して溶かしたり、米を研いだりするために使っていた小さな竹笊のことである。したがって「味噌漉し
 奥さん」とは、サラリーマンの家は蓄えがないために、そこに嫁げば味噌漉し笊を持って毎日お米を買
 いに行くような生活になる。つまり毎日の食べ物に困る生活を送るようになるという、農家の人たちが
 サラリーマン家庭を見下した言葉として使われたのだそうである。

 (中略)

 貨幣経済が浸透しつつあった社会であっても、まだ食糧事情が決してよくない時代には、いくら月給が
 あり収入が安定していようと、食べ物を自分でつくらないサラリーマン家庭の生活は、農家に比べ実際
 に不安定だったのであろう。

  こういった感覚は、その時代を生きた、普通の、庶民の感覚だろう。その中には学問の対象とならず、
 埋もれていく感覚も大いあり得る。著者はそれらを「 聞き書き 」によって引き出していく。ただただ
 傾聴して、語られた言葉をそのまま書いていく。エピソードに共感し、驚き、ときには涙する。

 しかし、介護民俗学での聞き書きは、利用者の心や状態の変化を目的とはしない(というより変化を指
 標にしたらおそらく「聞き書きは効果なし」という結果しか得られないだろう)。聞き書きでは、社会
 や時代、そしてそこに生きてきた人間の暮らしを知りたいという絶え間ない学問的好奇心と探究心によ
 り利用者の語りにストレートに向き合うのである。

  この姿勢が介護者と被介護者の立ち位置を逆転させるのではないか、とあった。介護する側はいつも介
 護される側の上に立ってしまう。だが「 聞き書き 」をしているときだけは、聞き手は語り手に教わる
 のである。教わる姿勢、学ぶ姿勢は相手の上に立とうとする構図からは生まれてこない。ある種の謙虚さ
 が要る。自分の不足を認めるから教わる。極端に言えば、無知を晒す行為なのかもしれないな、と思う。
  また、そういう弱さを補うようにして、人の居場所ができていく。

  何かしら研究的なことをしたい者として、そういう姿勢を大切にしたいな、と思った。研究者は何でも
 知っている人のように見えるけども、たぶん「 何でも知っているぜ! 」って言う研究者はいない。む
 しろ、何も知らないからこそ研究者である部分もあるはずだ。知っていくほどに、わからなくなる。それ
 でも探り続けたい。この矛盾が研究者なんじゃないだろうか。
  そして、おもしろいのは、介護民俗学が決してひとりよがりな知的欲求からできたわけではないってこ
 とだ。研究する姿勢によって、今までの介護では成し得なかったケアの可能性を拓いていく。調査者と調
 査対象者の双方に利があるなんて言うと下世話な感じになってしまうけども、まぁ、そういうことなんだ
 ろう。研究が成果ではなく、プロセスで価値を出していくってことでもある。プロセスで価値を出せるな
 らば、研究成果にオリジナリティを求める必要もない。もっと自由に驚き、気楽に研究できるんじゃない
 だろうか。

  ポイントは驚き続けることだ。代わり映えのない業務にうんざりせず、業務負担に飲み込まれず、日常
 から発見をし続けるのは相当難しい。

 「驚き続ける快感」を維持するための拠り所は見えてきた。その拠り所とは、民族研究者としての「矜
 持」と「知的好奇心」である。

  研究者に資格があるわけじゃない。研究者らしき者として、自覚して、誇りを持つ。そうしたら、誰だ
 って驚き続ける快感を維持できるのかもしれない。



 m(_ _)m