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meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

【雑記】できて当たり前のことは、できて当たり前か?


【 特に意味のない写真w 】

  帰ってきて、自分のブログを眺めてたら、前回記事の文章がひっかかりました。「 普通の人があたり
 まえに、呼吸をするようにやっていることを、死に物狂いの訓練で身につけたところで、生きるのが嫌に
 なるだけです。 」確かにそうだよなぁ、と思うわけです。

  平日のほとんどの日は精神障害者の方と会う生活をしています。特に話したりはしない日が多いのです
 が、もちろんある程度は見てますし、なんとなく雰囲気も伝わってきます。普通の人たちだよなぁ、と感
 じる一方で、その普通のことをするためにめちゃくちゃ努力されてるんだろうなぁ、とも感じます。
  話す。意見を言う。声を出す。普通のことです。できて当たり前のようなことです。それこそ呼吸のよ
 うに、意識せずにこなしていることかもしれません。無意識にやっているからこそ、それができないって
 感覚はなかなか想像できません。わかることと言えば、ずっと苦労してきたってことぐらいでしょうか。
 「 次の文章を読んで感想を書きましょう 」「 感想って何を書けばいいんですか? 」ってやり取り
 があったりしたんだとして、それがずーっとずーっと続いてきた人の気持ちって、まぁ、なんか自分の枠
 を飛び越えた感覚です。「 相手の気持ちを考えてみよう 」とか(たぶん)言ってる僕が、その人の気
 持ちを想像できてないんだから、つける薬がないってやつですね。

  そもそもコミュニケーションにおける障害とは、二者のあいだに生じるすれ違いであり、その原因
 を一方に帰することのできないものである。

 と、書いてたのは綾屋紗月さん。( 『発達障害当事者研究』綾屋紗月・熊谷晋一郎から引用 )この文
 章に出会ったときには「 なるほどなぁ 」と心底納得したもんでした。あっちはこっちがわからない。
 こっちはあっちがわからない。あっちの当たり前とこっちの当たり前が違えば、そりゃあ、コミュニケー
 ションなんて成立しない。でも、どっちが悪いってことでもないハズです。

  社会という多数と障害者という少数の構図で考えると、多数の当たり前を少数に刷り込んでいくことを
 「 社会復帰 」と呼んでいるようです。多数の当たり前、つまり「 常識 」ですね。そいつに則って
 動いた方が、そりゃあ、生きやすいし、ストレスフリーです。また、社会は常識があって成り立ってる部
 分も大いにあるので、みんながみんな常識を覆し始めると大混乱状態に陥ってしまいます。それはそれで
 大変不幸な事態です。
  じゃあ、どうするか? どっちにも責任がある。このことを社会側がもう少し意識するといいんじゃな
 いかな、とスカスカの頭で考えています。普通の人が呼吸するようにやっていることを努力して身につけ
 たのであれば、社会側も努力して刷り合わせをしようとするのが仁義というもんでしょう。( 仁義では
 ないかw )その刷り合わせが行政の福祉サービスなのかもしれないんですが、うーん、なんかちょっと
 違う気もします。
  こっちにこっちの当たり前があって、それに馴染んでもらうならば、アメリカの文化を見習おうとする
 ように、あっちの当たり前を見習ってみる姿勢が必要なんじゃないか? 見習うってのは、微妙なニュア
 ンスです。学ぶ、真似ぶ。やっぱり真似から入るのが学びの王道ですよね。真似てみると見えてくるもん
 があるのかもしれません。

  そういや、数ヶ月前に1回、俯いて視線を合わせないように栄を歩くってのをやってたなぁ。あれは怖
 かった。( 人にぶつかりそうで ← 迷惑w )うん、ちょっとそういうのもやってみようか。更に挙
 動不審になっちゃうけどw ま、いつものことなんで、お気になさらずに m(_ _)m



 m(_ _)m