meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

蚊取り線香が縁側に置かれています。


  蚊取り線香を使い始めました。( アシナガバチが出たのもあってw )名古屋に来てから4年はアパート住まいだったので、自宅で蚊取り線香を使うのは久しぶりです。縁側に置かれた蚊取り線香は、ゆるゆると煙を吐いて、この家のゆったりさ具合を加速させます。どこへやらと伸びていく煙は、いろんな曲線を残していって、ぼーっと眺めるのに丁度いい。気がつけば半時間ほど蚊取り線香を眺めたり、撮ったりしていました。

  蚊取り線香と言えば「 日本の夏、キンチョーの夏 」というキャッチコピーを思い出します。夏と言えば、縁側に蚊取り線香。欲を言えば、縁側からは田んぼとか山が見えて、スイカとかをかじりながら座っていたいもんです。夕暮れどきだったりして、ひぐらしがカナカナカナカナと鳴いてたりしたら、最高でしょう。さらにさらに、浴衣を着たキレイな女性が・・・、いや、この辺でやめましょう(;・∀・)

  こういうイメージは、ノスタルジーでしかないと思っていました。昭和懐古的で、ALWAYS3丁目の夕日的な雰囲気は、あまり好きではありません。「 おっさんがただ懐かしがってる状態でしかなくて、そんなもんはもうねぇんだから、さっさと新しい価値観に移行しろよ 」って言いたくなります。昔話には、その時代の生活/価値観を感じられるから好きなんですが、昔はよかったなぁ、なんて話を今を生きている僕らにされた日には、ちゃぶ台をひっくり返したくなります。そんなこんなで、ノスタルジーはあまり好きではなかったりするわけです。
  ただ、今感じているのは、蚊取り線香が縁側にある、そういう世界観に浸ってみるのは悪くないな、ということかと思います。いや、大日本除虫菊株式会社(金鳥)にのせられているわけではなくてですね。(;・∀・) 多分いろいろと歴史が積み重なって、蚊取り線香は文化の1つとして定着してきたんだと思うんです。縁側に置かれる風景は文化的にも価値がありそうな景観でしょう。

  文化って言い出すと、守られていくのも文化、廃れていくのも文化なので、なんだか逃げ口上みたいな気もしないではありません。実際にも、渦巻き型の蚊取り線香がつくられたのは1895年です。たかだか100年少しの歴史しかない。その程度のもんに日本の文化ラベルを貼り付けて執着するってのも、なんだかイケスカナイ話なんじゃないかな、とは感じてしまいます。まぁ、世の中の文化とか、常識とか、信じられていることって、意外なほど歴史が浅かったりするんですけどね。地域のお祭りなんて2年続けば伝統になる、ってのは言い過ぎですが、20年続けばわりと伝統行事です。



  話が逸れてしまいましたm(_ _)m そんなこんなで、蚊取り線香を縁側に置いて、ゆるゆるした時間の中で、ノスタルジーではない、何か歴史は浅いかもしんないけど日本文化的な世界観に浸ってるのも悪くないな、と感じているのでした。
  たぶん、生活の質、QOL(Quality Of Life)みたいなものがあるとしたら、こういった世界観への「 浸り 」はすごく大きな要素なんではないでしょうか。その感覚は、陶酔でもあるし、ナルシズムに近いのかもしんないなぁ、と考えています。「 よい生活 」には絶対的な尺度がありません。相対的に「 みんながうらやむ生活 」と定義するか、もしくは「 みんなとは違うけど、自分は納得している生活 」とするしかないのではないでしょうか。そうすると、前者、うらやむ生活を実現する人は構造的に極少数にならざるを得ません。目指すべきは後者でしょう。
  納得する。自分の腑に落ちる。そのためには相対評価を離れなくてはなりません。隣の芝生は青い、なんて言ってたら、いつまで経っても不満に悩まされてしまいます。隣の芝生は青くてうらやましいけど、まぁ、いいやヽ(´ー`)ノ ぐらいの心持ち。ナルシストが、他の人は置いといて「 オレ、カッコイイ (・∀・) 」と言うように、ある価値観の世界に浸ってしまえば、納得感が得られたりするんじゃないかなぁ、などと考えています。
  でも、あまりに他者を見ず、競争心がなくなってしまってもイケナイ気がするので、ナルシズムは中途半端なのがいい感じです。世界観にも、中途半端に浸る。映画とかも、時限付きでの世界観没入体験なのかもしれないですね。

  いや、よくわからない話を書きました。(;´Д`)

  こうなると、ますます、空間の構成とか、環境とか、デザインとか、アートとかが大事に思えてきますね。まぁ、人によって価値観は違うので、浸ろうと思えばどこでも浸れるのかもですが。




 m(_ _)m