meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

オリジナルであることについて

 オンリーワンって言葉は好きでない。「世界にひとつだけの花」が流行したのは2003年のことで、もう10年以上も昔のことになる。あの頃からオンリーワンなんてクソくらえ!って思ってた。負けず嫌いだったから、ナンバーワンになりたい欲もあったと思う。でも、それ以上に「みんな違ってみんないい思想」みたいな感じが鼻について仕方がなかった。当時の人権教育的なものへの反感もあったんだろう。

 誤解を怖れつつ言ってしまうと、わたしはわたし自身がオンリーワンの存在だと思っていない。もちろんクローンがいるとかそういう意味ではなくて。簡単な話「別にいなくなってもいいでしょ」ってことだ。関係各所には大変ご迷惑をおかけするかもしれないけども、それらは社会にとってまったく致命的ではないハズだ。おそらくほぼ全ての人が「いてもいいし、まぁいなくても大丈夫」って感じだろう。自分の存在が世界の命運を担うなんてことは、ない。
 調べてみたら涼宮ハルヒが、自分が特別な存在でないことを受け入れられずに憂鬱になったのも2003年ごろだったようだ。2000年代前半の雰囲気。ゆとり教育が進んで個性なるものが伸ばされ、求められていたように思う。ハチミツとクローバーでは竹本が自分探しの逃避行に出かけ、ネット世界では2ちゃんねるからブログへ、mixiへ。自己表現の場が増えてさらにオリジナリティを求められる、もしくは、求められているような気になる環境が整っていった。
 情報爆発はあらゆる情報を大量に流し、個人は他者との差別化が難しくなっていく。「まだ誰もやっていないことは何なのか?」ビジネスプランコンテストなんかに出ながら、わたし自身もそんなことを考えていた気がする。他人と違うことを追い求めていく、ってのは、今考えてもわりと中二病な発想だと思う。



 人はそんなに特別な存在でありたいのだろうか?

 そんなことをちょくちょく考えるようになった。精神障害などを持つ方の就労支援って職業柄「いかに社会に合わせていくか」って視点を大切にするようになったからだと思う。残念ながらか、なんなのかわかんないけども、今の社会には流れもあるし、ルールもあるし、暗黙知もある。そういったものに合わせていくには、自分のオリジナリティを捨てなきゃならないこともある。会社に行けばスーツを着るし、帰宅するときには「お疲れ様」と声をかける。何かを企画するときには必ず他の企画の真似をする。独自の視点とか、個性を活かした発想とか言われるけども、大概は真似事であって、また、そうでなくてはならない面がある。まったくのオリジナルは、普通の人には認知されない。ピカソとかの画家が生きてるうちに評価されないように、オリジナリティは往々にして生活を豊かにしない。お金を稼がない。
 社会から求められていることは「他人に合わせること」だ。あなたとわたしは一緒だよね、って前提で社会は動いている。なるべくいろんな人を巻き込めるようにされてはいるけども、根本には同調圧力がある。と、思う。そこでは没個性が求められているし、代替可能性が重要視される。
 わたしはわたしでなくてもよい。特別な存在でありたい人間はそこに矛盾を感じて悩むことになる。

 ウィキペディアでみると、マズローの五段階欲求の最上位、自己実現の欲求は「自分の持つ能力や可能性を最大限発揮し、具現化して自分がなりえるものにならなければならないという欲求」らしい。わたしには自己実現したい!って人をわりと毛嫌いしている節がある。なにもそんなに自分を出さなくてもいいではないか、と感じてしまうし、そういう人たちは若干押し付けがましいイメージがあるからだ。たぶん、マズローの言ってる自己実現と、自己実現系の自己実現は違うんだろうけども。

 自分のオリジナリティを築くこと。そういうのを最終目標に据えるのはやめておかないか?単純に同化すればいいし、同化できることをソーシャルスキルと呼ぶのだ。オリジナリティを追求することは、孤立することと同じである。孤立してもいいんであれば何も言わなけども、オリジナリティを持ちながら他人と混ざり合いたいだなんてワガママもいいとこではなかろうか?

 自分らしさ的何かをきちんと捨てて、その上で何かを築くべきなんだと思う。

 ニコニコ動画は00年代後半に登場した。初音ミクをはじめとするボーカロイドが出てきたのも後半である。それこそ数々のオリジナルな自己表現が充満している、、、と思いきや、わたしはそう見ていない。あそこで起こっていることは、クリエイティブの連鎖反応だ。例えが古いんだけども、マリオのプレイ動画から、改造マリオ→全自動マリオ→全自動マリオシーケンサ、とかの流れは本当にすげぇなぁと思った。発想はパクられる。パクられて次に進む。前の流れをきちんと受けて、次につなげるのがいい。作品はそこで完結しない。発想は個人のオリジナリティから出てきたものではなく、その権利を主張せず、次に渡される。
 それぐらい控えめでいいんじゃないかなとか思う。



 「いやいや、そんなこんなを書いているkimuraもオリジナルだし、独自視点を持っているよ」とか言われそうだ。それは否定しない。まぁ、でも、毎回すっごく平凡で当たり前のことを書いているような気しかしないし、同じようなことを言ってる人はたくさんいるだろうと思う。
 あと、全然考えがまとまってなくて、網羅的でも、整理されてもいない。駄文にて申し訳ない。


m(_ _)m

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