meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

ファシリテーションのこと。など。

 コミュニティファシリテーション研究所のノリさんにお会いしました。「 ノリさん 」という名前にひっかかって、コミュニティファシリテーション入門講座に参加した私です。特に何やら目的があったわけではありませんでした。ただ、Facebookで見かけたイベントに、気まぐれに参加して、楽しんできただけのことです。だけど、とってもおもしろかった。コミュニティファシリテーションってのが何なのか全くわかりませんでしたが(笑)とっても印象に残る、気になって気になる、よい消化不良感を持ち続けることになる、そんな講座でした。
 「 コミュニティファシリテーションがどういうものなのか 」とか、そのもとになっている「 プロセスワークがなんなのか 」とか、そういう話を書きたいのではないなぁ、と思います。おそらく、そこから紐解くよりも「 ノリさん 」って人がどういう人なのかを感じる方がはやい。ファシリテーターは存在だ、とか、あり方が大切なのだ、とか、そんな話を聞いたことがあって、私もどちらかというとその意見に賛成だったりします。場の中のすべての要素がいろんな方向に乱反射して、その場の総体に影響しあっているのだとすれば、ファシリテーターもその中の要素のひとつです。そして、その立場をもってして乱反射する影響を編集するような人だと思うのです。だから、コミュニティファシリテーションがノリさんであって、ノリさんがコミュニティファシリテーションである、みたいな話が出てくる。そんでもって、捉え方としては、具体的な存在からアプローチした方がわかりやすい。理論的な話をしているのに、直接会って話しを聞くことに価値を感じる要因はその辺にあるのでしょう。

 ノリさんを見たとき「 こういう人だよなぁ 」って感じたのは、たぶん、なんらか自分の中で予想していた部分があったからだと思います。物腰やわらか、自由に伸びて、ぐっと引き込む感じ。ユーモラスに、思いついたまま話していて、それでいて、全体を見失わない。理知的で、どこか有無を言わせぬ説得力があるものの、非常に感覚的な話し方を、丁寧にする。特に、感覚的なことがちゃんと伝わる方法が洗練されていたのは印象的でした。
 例えば、私がとても感覚的な質問をしたとき。「 ということは、ファシリテーター(の感情)はだいたい守備範囲のセンターにいた方がいいということですか? 」という、ものすごく漠然とした疑問に対しての答えに驚きました。「 うーんと、指人形を思い浮かべてもらった方がよくて、私の中にそれぞれ感情をもった指人形が何匹かいる。それらの中で、今、どれが出て来たがっているかを見つめておく、ということです 」
 私の曖昧な質問を理解していた上で、すぐさま感覚的に返していただきました。とても文章では表現しにくいんですが、そのわかりやすさに脱帽です。すっと腑に落ちた。いやはや、全く、世の中は広いなぁ、とか思わざるを得なかったわけです。ノリさんを呼んでくれた、しらまこさんには大変感謝なのです。
m(_ _)m



 ファシリテーターって言うと大雑把で、いろんなタイプのファシリテーターがいます。ビジネス上、結論に素早くたどり着くための手法もファシリテーションと言えば、ゆっくり、遅くともみんなの意見を引き出す手法もファシリテーションと言われている。場をロードローラーのようにならすこともあれば、鍬を持ってえっちらほっちら耕すこともある。あ、ちなみに、私自身はファシリテーションを勉強したこともなければ、研究したこともありません。こんなことを書きながら、ごめんなさいm(_ _)m 感覚で書いています。
 とかく世の中には様々なファシリテーターがいらっしゃる。ただ、その中で私が好きなファシリテーションってのがあるような気がしていて、ノリさんもその一人だなぁ、と思いました。私の好きなファシリテーションをする人たちは、ある一定の雰囲気を身にまとっている気がします。ぐぐっと落ち着いた安定感であったり、押せばなびくような感じやすさであったり。なんか矛盾してますね。たぶん、それでいいんです。
 ファシリテーターは影響の輪の接するところに立っていると考えると、構造的になんらかの矛盾を抱えてしまうんじゃないだろうか、とか考えています。そこが軸であるからには、しっかりと立っていなくてはならない。安定感は場の安心感につながります。だけども、軸が強烈に出てしまうと、場にある個同士の影響が相互に届かなくなってしまう。ファシリテーターが接点に立ってしまって、それぞれの影響を接点が吸収してしまうし、その立場を利用してファシリテーター自身がそれぞれに強く影響してしまう。場づくりにツールが有効なのは、ツールが接点の役割を代替してくれるからじゃないでしょうか。
 ただし、個人と個人の影響をかき消してしまうリスクをとってファシリテーターがその場にいるのには必ず意味があります。ダイレクトに混じり合うのではない。編集をかけていく。この編集がまた、ロジカルでかつ感覚的っていう。。。(;´Д`) なんとも言えない要素を求めてくるのです。

 なので。

 いや、なにが「なので」なのかわかりませんが(笑)私はファシリテーションって行為がとても身体的だなぁ、とか思っていたりもします。矛盾するAとBをさらっと同時に行ってしまえるのは、身体です。なるべく反応するままに動いているときの方が、意外にノッたりするときがあります。もちろん、場の中で見るものだけはきちんと見ていないと、ごそっと何かを見落としてしまいますけど。
 さらに進んでいうと、私の頭の中が、どうしてこんなにロジカルになってしまっているのか、ってことにも違和感を持ちはじめています。ロジカル、というか、因果に支配されていはしまいか、と。原因があって、結果がある。そんな公式は、とてもシンプルでわかりやすく、力強い。と、感じてしまっている私の頭が、その公式に則っている。頭も身体のハズなのに、矛盾がなかなか乗り越えられないのは、そういうパラダイムに浸りきっているからでしょう。いや、矛盾てのは、乗り越えるものではなくて、扱うものでしょう。その「 扱い 」のHowが、今のところ、私の中で「 編集 」と呼んでいるもの、、、なのかもしれません。うーん、漠然に漠然を重ねたような話になって、戻ってきてしまいました。。。(;´Д`)

 で、そんな扱いをマスターした先に何があるのかって? たぶん、ろくなもんはありません。何かが劇的に解決していくような、そんなものはないんだろうなぁ。ただ、目の前にあるものの中に、ちゃんと意味を見出していくことができるようになればいいかもなぁ、ぐらいには思っていたりするのです。アフォーダンスを見い出す視力、みたいな感じですかね。





m(_ _)m