meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

傘でもさしながら。

 雨が降ると傘をさします。でも、私はどうにも傘ってのが苦手です。左手で鞄を持って、右手で傘を持って。2つのモノを同時に扱うことになると、頭の中がごちゃごちゃになってしまいます。不器用だから、なるべく荷物は1つにしたい。だから雨が降るとブルーな気分になるのです。これぐらいの小雨なら、と傘を持たずに出ることも結構あったりします。

 この傘ってのは最もイノベーションが起こっていないモノの1つではないでしょうか?ジャンプしたり、折り畳んだりできるようになってはいるけども、基本的な形は江戸時代に使われていたものとそう変わりません。たぶん、おそらく。江戸時代と言わず、その昔の昔にさかのぼっても、あんまり変わらないだろうと思います。「 傘 」という字がそもそも傘の形をしてしまっているわけで、ということは、その起源たるやどれほど昔なのかわかりゃしません。他の国のモノと比べてみても、そんなに形は変わらない。(ちょこっと調べてみると、傘をさす文化のない国もあるみたいですが。。。)これほど歴史が深くて、多くの地域で共通だと、もはや進化の最終形態なのではないか、なんて思えてきます。
 ボタン押したら頭上に円盤が浮かんで雨を弾いてくれる、とか、見えないベールで湿った空気をシャットアウト!、とか、そんな未来型の傘が誕生する気配も残念ながらなさそうです。映画『バック・トゥー・ザ・フューチャー』で濡れた体を速乾させる服が出てた気がするんですが、あれはいつになったら開発されるんでしょうね(笑)傘はいつまでも傘のまま、なのかもしれません。


 まぁ、でも、それもありかもな、と、この前、出勤するときに思いました。

 冬の雨が降っていて、寒くて、めんどくさくて仕方がない。でも、よく考えてみたら「 雨の日に濡れない 」なんてのはこっちの都合なんですよね。わたしたちが生理現象として食事を摂らないと生きていけないように、地球も雨を降らさないとならないんでしょう。そしたら、自然、私たちは濡れます。むしろ濡れない方が不自然です。雨が降ってるんだから。
 ぼーっとそんなことを考えてたら、通勤途中の道で、隣を駆け抜ける車がなんか妙に思えてきました。子供の頃からあんまり車は好きじゃありません。どちらかというとイケスカナイ奴。奴らはいろいろと無視し過ぎです。風とか、雨とか。風が吹いたら揺れる。雨が降ったら濡れる。当たり前のことをねじ伏せている感じがしてるんですよね。「 何を言っているんだ?経済的合理性を考えればそんなことに影響されない方がよかろう 」とか言われれば、返す言葉もありませんが。そんで、こんなこと書いてて、家や会社では暖房まみれですしね。(;・∀・) 個人的好みで書いてますので、その辺はご了承くださいまし。m(_ _)m

 ただ、ぶぉん!と通り過ぎる車を見つつ、傘ぐらいが丁度いいのかもな、と思い至ったのです。

 ずぶ濡れにはならないけれど、足とかは濡れる。そんぐらいがいい落としどころなのかもしれません。あっちも立てて、こっちも立てる。これは、利害を調整するときの基本中の基本みたいなもんではないだろうか、とか。相手にも事情があるし、自分にも事情がある。相手の事情を察しようと意識を向けない限り、大概の議論は暗礁に乗り上げます。これはまさしく暗礁です。「 ある 」と思っていない見えない部分に阻まれてしまいます。相手を見ようとしなければ、見えなければ、自分勝手になってしまう。無駄にイライラしてしまうかもしれません。
 例えば、お天道さまにも事情があると思ってみる。春が近づけば、春雨とかが降る。梅雨は雨が多いし、夏は夕立が降る。それはもうどうしようもないことです。だからめんどくさくなる。濡れることもある。それはもう、諦める。技術でもって全てを守られてしまうのもいいけど「 しょーがない相手となんとかうまくやっていくこと 」の方がなんとなく社会って感じがしてしまうのであって、そんでもって、傘をさすってのは、そういう社会でやっていくためのトレーニングなんじゃないかとか感じるのです。

 言い過ぎだろーなぁ、とか思いながら、
 こちらの思うとおりにならない相手と調整するってのはこういうことか、とか、
 傘の中で考えていたりしたわけなのでした。




m(_ _)m