meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

「学校教育の終わり」を読んで。


【 学校といえば、黒板ってことで。黒板の写真 】

 内田樹さんの「学校教育の終わり」という記事を読んだ。だいぶ長文になっているが、とっても大雑把に言ってしまうと以下のような話だったと思う。

 ・日本の学校教育は全体的に終わってる。もうどこが悪いとかじゃない。
 ・なので、部分的に修正するなんてことはできない。改善とかできない。
 ・公のため、共同体のための人材を育てていたのに、個人の利益追求のための教育になってる。
 ・グローバル化した社会に合う学校教育なんてない。
 ・もう、全体的に終わってる。個人塾だけはちょっと希望が持てるかも。

 細かいとこはすっ飛ばしてまとめると、そんな話だ。なんとも、もうオワタな話であり、うんうんと納得してしまいそうになる。この記事を読んで「 そうだ、終わっている! 」と言うのは簡単である。でも、わたしには、何とも言えないイラつきが残ってしまった。なんだこれは。どういうことだ、この感覚は。

 直接の原因は、記事の中のこの一節にある。曰く、

東大や京大の卒業者の中に「ノブレス・オブリージュ」を自覚している者はほとんどいない。

 一応、わたしも京都大学の卒業生である。嘘のような話だが、本当である(笑)ということは、これはわたしの話である。無関係ではないどころか、直接名指しされているようなものだ。
 ふむふむ、確かに、ノブレス・オブリージュを自覚してはいない。そもそもわたしはそんなに地位や財産を持っている者ではない。高貴なるものの義務を果たそうとか、そんなことは考えていない。自分のやることをただやっているのみである。結果はどうあれ、公のために動いてるつもりはない。ただし、個人利益のために動いているつもりもない。
 思えば、わたしが京大で出会った人たちは社会とまともに向き合っていたし、きちんと考えられる人たちであった。「社会を変える!」なんて気概を持っている奴は少なかったけども、今の社会は何かおかしいと言える人たちであった。その才能を馬鹿げたことに無駄遣いすることはあった。そんでも、私利私欲のためとか、既得権益の保持のために使うやつはいなかった。たまにそういう奴があらわれると、周りが叩こうと頑張るぐらいの良識はある。京大はそういうところだ。「反体制の気風」は、まだ失われちゃいない。と、思う。

 そもそもだ。学校教育の受益者が本人であると自覚して、自己利益のために教育を受けている人間ってのはそんなにいるのだろうか?「将来の夢は、他の人たちをおしのけて金儲けすることです!」と言ってる学生を、少なくともわたしは見たことがない。逆に「あなたたちが金儲けできるように教育するのがわたしの仕事です」なんて言ってる教師を、わたしは見たことがない。「公のため」とまでは言われないけども、「個人のため」とまでも言われない。少なくとも、わたしが接してきた先生方は、わたしに自己利益を追求のための教育などしてこなかった。

 学校教育を語る上で、一時代だけを取り上げるのはナンセンスである。それを承知の上で、例えば自分の高校時代を振り返ってみるに、まぁ、よい先生に恵まれた時代であった。わたしが先生方に習ったのは、「公のため」という精神ではなく、学ぶことの楽しさだった。「私の授業は全部半信半疑で聞きなさい」から始まった授業があった。文系のわたしに非ユークリッド幾何学なるものがあることを教えてくれた。正解注入式の人権教育のおかしさを説いたプリントを配られて感動した。英語ではなく、英語で書かれた内容がおもしろかった。平安時代の世界観を自ら調べにいった。
 これらは分解不可能なわたしの経験である。なので、どの部分が学校教育なるものによっているのかわからない。わたしはこれらの全部を通して、学ぶことを求め、大学に行き、会社員になり、辞めてニートをして、NPOに勤め、転職することになって、今の会社で障がいを持つ方の相手をしている。グループワークの進行役として前に立ち、今まで教えられてきたことを伝えているが、それらは決して、参加者が「金儲けをするため」のものではない。
 わたしは、社会っていうデカデカと聳え立つ何かに対して、無意味なジャブを無意味とわかっていても繰り出していくようなことをしていると思っている。その元になっているのが学校教育なのだとしたら、

 わたしは、わたしが受けてきた学校教育を否定したくはない。
 (あ、ごめん。中学校とか小学校とかは除くw)

 教育に関して門外漢だから、軽々と言ってみる。「学校教育はまだ終っていない」。当たり前だ。まだ終わるハズがない。今、学校に通っている学生に何と言うつもりなのか。現場の教師の志はどこに向かえばいいというのか。終わってないでしょ。何を納得させられてるの。

 内田樹さんの記事は、学校教育関係者への挑発だと思う。あの記事をうんうんと読み進めて、そうだね、と返してしまえば、そこで本当に終わりである。これは是非とも反論せねばならない。特に学校教育関係者が真っ向から勝負に出なければならないものではなかろうか。
 こういうときには、水越伸さんの言葉を引用したくなる。

 僕はこれを読んだとき、なるほどそうだなと甘んじて受け容れようという気持ちと、なにをいうかと反発する気持ちがないまぜになった。それまで実践の現場で味わった深い絶望感と、数多くのメディア表現者たちのひたむきな姿に見出せる可能性の両方が、同時に思い出されたのだ。鶴見は、戦後日本の大衆文化を温かく批判し、市民運動のたいまつのような思想をともし続けた人である。しかし彼は、大衆文化に浸りきることも、市民運動で泥まみれになることもなかった知識人だった。そこに鶴見の知的長寿の秘訣があり、同時に弱みもある。
 年寄りのペシミズムには、若気の至りで突っかかっていってあげるのが礼儀というものだろう。僕は鶴見俊輔の挑発には乗らなければならないと思った。真顔でその挑発に乗り、真正面からこの問題に取り組まなければならないと思った。
( 『メディア・ビオトープ』 水越伸 )

 論壇のフラグシップ、内田樹さんからの挑戦状である。年寄り(?)のペシミズムには、若気の至りで突っかかっていってあげるのが礼儀である。これはそういう類の記事だろう。みんなもっと突っかかってみてはどうだろうか?


 でも、わたしは全力で怠けるけどな!ヽ(´ー`)ノ




m(_ _)m