meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

大量に流れこんできて、つかみどころのない情報をどう扱うか

 ノートを使わなくなった。別に真面目じゃなくなったわけじゃない。むしろ私はいつも不真面目である。会社のこと、制度のこと、その他もろもろの勉強などなどにおいて、そもそも覚える気がありゃしない。常に怠けたい主義なので、だいたいの場合、頭は省電力モードになっているのだ。話された先からスポスポ抜けて、どこか虚空に消え去っていく。その上、ノートも取らない。いや、まさしく不真面目である。
 ただ、社会人生活(と呼べるものを送ってきたかどうかは置いておいて)を振り返ってみて、ノートをとっていた時期はそんなにない。たぶん、最初の1年ぐらい。そんでもって、そのノートに書いてあることを見直して、復習するなんてこともした覚えがない。学生時代から、使えるノートをきちんとつくる、って能力に乏しかったようにも思う。

 とはいえ、私は書いて考えるタイプである。書いていないと考えが深まっていかない。思考の足跡を残しておかないと、次のステップがどこに飛んでいいのかわからなくなってしまう。だから、本気モードで企画しているときには、手が動いている。メモ帳とかホワイトボードとかに書きなぐっていて、それでも思考スピードに追いつかないから、自然、字が汚くなる。そんなんだから、何か書けるものは手元に持っておきたいってことで、普段は大福帳みたいなもんを使っている。裏紙を束にして、いろいろ書いて、どんどん捨てて行くやり方だ。
 おんなじことをやってた人がいて、それを真似してみてるんだが、これが意外と性にあっている。適当に書いては、捨てていく。なるほど、どんどん体系化が苦手になっていくわけだ。

 今の社会は情報に溢れている。どんぐらい溢れているかというと、とてつもないぐらいに溢れている。2008年ごろに「情報の摂取量が5倍になった」とか聞いた気がする。細かいことはわかんないけど。昔に比べりゃだいぶといろんな記事を読むようになったし、動画も見るようになった。スマホも使えば、電子書籍も使う。逆にテレビや新聞には触れなくなったことを含めても、情報摂取量はだいぶと増えてるんだろう。
 『ウェブ人間論』ってのの中で梅田望夫さんが「情報のシャワーを浴びる」的な表現をしていた。まさにそんな感じだ。わーーーーっと情報を浴びる。FacebookTwitterはてなブックマーク、その他のサイト。ニュースなこともあるし、誰かのブログの記事のときもある。事実もあれば、考え方のこともあるし、アイデアとかつぶやきだったりもする。分類されない情報を、自分の何となくの興味だけをたよりに、引き出して、浴びて、流していく。情報は自分の中を流れていくものであって、あんまり貯めこむものと捉えられていない。だーーーーっと、自分の中を通るだけのもの。そんな風な姿勢で情報に向かっているような気がする。
 興味のある情報をストックしようと思うことも多々あるけども、どうにもうまくいかない。たまにこうしてブログにしたり、Evernoteに書いてみたりしてるぐらいだろうか。ストックするには、情報量が多すぎる。整理するために情報の摂取量を減らすのも、なんだかなぁ、って感じになる。というか、摂取量を減らすとおもしろくない。
 テレビや新聞、書籍はとってもわかりやすく情報がまとめてある媒体だと思う。中の人がめっさ頑張って、情報を整理している。だから多くの人に伝わるし、わかりやすい。そして、その反面として、単線的になってしまう。視聴者や読者は受身になる。教えてくれる人に教わっている感じ、かもしれない。一方で新しいメディアは情報が整理されていないことが多い。ブログなんか典型例。まだまだ途上の情報が、そのまま出てくる。まとめサイト、なんかも編集や意図はあるにせよ、そんなに整理された感じは受けない。また、インターネットであることによって、ニュースサイトの記事も俯瞰的に見るようになる。

 その結果、世の中の出来事が乱立状態で捉えられて、それらを結ぶ糸が見えなくなっている。

 で、それが危険やねん、って話ではない。むしろ、それでいいんじゃないの?ってことを言いたいのだ。正直、ノートにとって体系化された知識は動きが鈍い。社会を理解する切り口があると楽だけど、それに頼ってると更新スピードが遅くなっちゃう。だから、浴びるように摂取して流してきた情報と、その中で自分が「今、考えたこと」の方に重きを置いて行動する。この今の感じを洗練させておくためにも、情報は浴びておかないといけないのかもしんない。

 いや、本当はきちんとストックして、整理して、それらを活かして次につなげていくような情報処理が、論理的には正しい、って意見もあるだろうし、そこに対して反論する気はない。それができりゃいいし、できる人はやったらいい。私もそういうことがやりたいけど、うーん、とりあえず今は無理そうである。
 ひたすら自分の中に情報を流しこんでいく。なんか自分が濾過するときの膜みたいになってる感じ。その中で気になる情報をピックアップすることもしない。気になる情報は、気になる!、だけで終わる。場合によっては「いいね!」を押すぐらい。何も残っていかないけど、たぶん、それで大丈夫だし、今の時代は大半の人がそこで手を打っておかないと情報洪水に飲まれて情弱になるか、マスメディア依存に終わるんじゃなかろうか。

 前述の『ウェブ人間論』にも「量は質に転化する」って話が少し出ていた。ちなみに、べてるの家にも「量」を重視する考え方があったりする。
 フローはフローとして流す。そういう姿勢なのだ。


 決して諦めではないと、言い張っておこう。(`・ω・´)




m(_ _)m