meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

【本】採用基準


【 『採用基準』伊賀泰代 】


 「まっきんぜい、ってどういう税金なんすか?」って後輩が言ってたのを思い出しながら読んでいました。優秀な後輩は、その後、資源系の大手企業だったかに就職して、今は東京で働いています。

 さて、この本。採用基準というタイトルながら、大半は「リーダーシップ」について書かれているようです。曰く、日本にはリーダーシップが足りない、と。確かに言うとおり、その通りです。会議においては、その場の改善提案よりも沈黙が重視されます。業務に違和感を感じつつも、まぁ、上から言われたことだからと、そのままのやり方が遂行されます。和をもって貴しとなす。より良くしよう、成果を出そう、価値を高めよう、なんてことよりも、周囲との軋轢を如何に生まないか、が日本サラリーマンにとっては大切なのです。
 「こんな会議は非効率だから、こうしましょう!」なんていきなり提案する新人なんて、そうそういませんし、そんな奴、使いにくくて仕方がありません。しかし、筆者が言うにはそれがリーダーシップというものだそうです。成果のために責任をもって、決断し、実行する。課題を自分のこととして捉えて、動く。なるほどなるほど。それはそれで大事なことのように思えます。上司に確認をとらずに決断してしまう、なんて、日本企業の常識からは飛び出るような事例も出てきますが、それはそれで一定の合理があるような気がします。日本人は「顔色うかがい過ぎ」ってのはよくわかる話です。
 自分で自律して動いていくような、そんなリーダーシップの話がゴリゴリと書き込まれています。久々に読む華々しい話に、若干の縁遠さを感じつつも、いや、縁遠いからこそ、参考になったりもするもんです。

 ただ、読んでいくにつれて湧いてきたのは「日本人はなんてビジネスに向いていない民族なんだろう」って考えでした。和をもって貴しとなす、ってのは日本人の根幹思想のひとつです。争いを避けていこうとする姿勢が、この狭い島国の中で育ったには理由があるのだと思います。正直、成果よりも和であり、和の方が成果である、って一面があってしまうのが日本なのではないでしょうか。グローバル社会で戦えないって? 当たり前です。そういう文化なんですからヽ(´ー`)ノ

 思い返してみると、わたしの課題は如何にリーダーシップを捨てられるか、だったような気がします。昔から指揮を取ろうとする人間ではあったりしたわけで、そのたびに「しきってんじゃねーよ!」って感じで怖いクラスメイトからガスガス言われる奴でした。そもそも集団から抜け出て、提案をする賢しい奴なんて、周りからみたら小賢しい人間にしか見えないというのが、日本の事実なのではないかと思います。提案に関する適切なフィードバックなんぞ、たまにいい先生がくれるかくれないか、です。
 なので、わたしは「まるくなって」いきました。この本読みながら、アメリカで育ってたらそのままで生きていけたのかもなぁ、とか考えるぐらいには、まるくなっていきました。根本的には社会不適合なわたしが、ある程度社会化されていった、とも言えると思います。
 まるくならざるを得なかったのにも、理由があります。というか、まるくなった方が、成果が上がる、というのがわたしの結論です。喧嘩嫌い、平和主義者のわたしです。そんなわたしの場合、和を利用した方が成果につながりやすいのです。
 成果の考え方もひとそれぞれな気がしますが、おそらくそれは今の状況でも同じです。日本において和を崩すことは、成果を出せないことにつながりかねません。潜むことや、裏から手をまわすことが重要であることもあります。ストレートしか投げないリーダーシップは、衝突を起こしまくるので大変です。カーブも使いこなせるようになって、はじめて腹黒い日本型リーダーの誕生です。

 日本にはリーダーシップが足りない、ってのにはわたしも賛成です。その上で、あっけらかんとした、胆力のあるスーパーマン的リーダーシップを育てていくのもありでしょう。けれども、わたしとしては、腹黒いリーダーシップとか、陰湿な当事者意識ってのも育てていく価値があるんじゃないか、とか思います。

 「 いうて、ちゃんと考えてるんでしょ? 」
 「 いや、そんなことないっす 」

 こういう会話ができるのが日本人の奥ゆかしさなら、奥ゆかしいリーダーシップを創っていくべきかもしれませんね。まぁ、そんな暇もなく、グローバルリーダーの波が押し寄せてきてるんでしょうけど。
ヽ(´ー`)ノ





m(_ _)m