読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

られる技術

 自ら、主体的に行動することが求められる世の中です。とかく「わたしが◯◯する/◯◯したい」ということが重視されがち。なにかを成す、達成する能力ばかりが上がっていくし、上げていかないといけないような気がしてしまいます。

 敢えて言ってしまえば、「主体的に動く」ってのは習得される「技術」だと、わたしは思っています。属人的な、それぞれの人が生来持っている能力や才能ではありません。考える技術、書く技術、アイデアを出す技術、愛する技術、などと同じ目線で捉えられる技術です。つまりは、教育によって習得可能なものです。
 習得可能なものであるからには、身につけていかねばならぬ課題として目の前にあらわれてきます。どうしようもないものは横に置いておくしかありませんが、どうしようもあるものならば何らかの対処をせねばなりません。主体的に行動するようになろう。まず、自分が動こう。課題を自分ごととして捉えよう。そういう姿勢や努力は組織や社会にとって貴重です。
 なんとなくの雰囲気感から「する技術」は今の日本に足りてないんだろうなぁ、とは感じています。なんだかんだいって、まだまだ個人主義の世の中、個人が主体の世界なのです。


 一方で「られる技術」ってのは、あまり明示的に語られません。「する」のではなく「される」。受け身になること。振りまわされること。その「技術」です。
 どういうことかと問われると、少し困ってしまいます。そういうのがあるんだろうなぁ、って感覚だけを頼りに「られる技術」について考えているから。でも、たぶん、あるんです。ちゃんと周囲から影響を受ける技術、振りまわされ、ときには蹴飛ばされるための技術が、たぶん、あります。そして、それも大切な生きる術なのではないかなぁ、と感じています。

 あまりにもフワフワした話なので、ちょっと具体例を挙げてみます。適切な例かどうかは、わかりませんけども、少しお付き合いください。
 わたしが、わかりやすくこういう感覚、「られる技術」を意識するのは撮影しているときです。
 写真が好きで、ちょくちょくいろんなモノを撮っています。街を歩きながら撮ったり、ライブステージの脇でひたすらシャッターを切ったり。撮影スタイルはいわゆるスナップってやつです。三脚などは使わずに、手持ちでパシャパシャと撮っていきます。撮影枚数がやたら多いタイプです。
 で、撮影していると、撮ってるんだか撮らされているんだかわからなくなるときがあります。シャッターを切らされた、と感じることがある。そして、意外とそういう写真の方がうまく撮れてしまう。狙って撮った写真よりなんかグッときてしまうから、困りもんです。正直ちょっとしょぼーんとしたりもします (´・ω・`) 
 そういうときは、撮ってる側からすると明らかに撮らされていて、撮らされるためには、自分が周囲の影響をちゃんと受けていないといけません。「撮る」という自意識が邪魔になる。だから、わりと淡々と撮ってるときに、そういう写真が紛れ込みます。わたしがちょっといい写真を撮るためには「られる状態」をつくり出す方が早かったりするんです。


【 写真データを吸い出すときに驚く。こんな写真、撮ったっけ? 】

 この「られる状態」は、意識的につくり出すこともできる気がしています。例えばファシリテーションのようなことをしているとき。「する」ばかりでは、どうにも周囲とつながって進むことができなくなることがあります。その場の状況をいれるために、パッと自分を手放してノーガードになる。身体感覚な話にもなってしまうんですが、空気感を無意識で受けておくということをします。もちろん、意識的にもその場を見ます。そういうことをするから、場がうまく進むってわけでもないんですけどね(笑)
 単純に、周囲のニーズをきちんと踏まえておこう、という話なのかもしれません。ただ、ニーズを捉えにいこうとするばかりではなく、自分を空けて飛び込んできたり、溶け込んでくるものを見る、ような姿勢なのだと思います。そうしないと、見えてこない視界もある、のかもしれません。

 「する技術」も大切です。ただ、それに拘ってしまうのも、リスクの高いことだと思っています。ちゃんと受け身になることを考えてみるのもたまにはありでしょう。これも感覚ですが、おそらく、きちんと受け身になれる人って、そんなにいません。自分含め。 m(_ _)m



m(_ _)m

広告を非表示にする