meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

言動に沿って「自分」はつくられる

 「 ちょっとコレどういうことよ!!あなたのミスでしょ!!!◯×☆□※◯×!!!! 」

 誰かを責め立てる声が聞こえてきます。もう店を出ようかと思いましたが、イヤホンを使って踏ん張りました。サブウェイにて、ちょうどこの記事を書いているときのことです。ヒステリックな女性の声は、この店へのクレームでしょうか。はっきりとは聞こえません。でも、その声の調子だけで、わたしはとてつもなく怯えてしまいます。
 どうしてあれほど攻撃的に言葉を使えるのでしょう?

 たぶん、あの声を荒げていた女性は、その自分自身の言動自体が、自分にそのまま跳ね返ってくることを理解されていないのだと思います。言葉や動きは、自分自身をつくるものです。言動が穏やかであれば、自分は穏やかにつくられていきます。激しい言動、キツイ言葉は自分を激しくキツくしていきます。「 あなたのその態度が気に入らない!!!! 」と言い放っていた女性は、そのような激しさで自己表現をしてしまったがゆえに、必ず、激しい自分になっていくのです。自分なるものがあって、そこから言動が出てくるのではなくて、言動があって、それに合うように自分が立ち現れてくる。どうやらそういうものらしいのです。



 最近、自分の言葉遣いに若干の違和感があって、これはいかんなぁ、と思っていたところでした。気がつくとTwitterなどに「クッソワロタwww」とか書いていたような気がしないでもない。それが自覚的に使われていたのであればまだよかったんでしょう。けども、ほぼ反射的に言葉が出てくるとなると、ふーむ、少し考えものです。
 言葉は単なるコミュニケーションツールのひとつではありません。意味が伝わればよい、というものではない。その程度の範囲には到底おさまらないものです。言葉は思考であり、認識であり、表現であり、様々なところに影響を及ぼします。それは一種の「 呪い 」のようなもので、その呪縛力はとても強い。

 例えば、中学生の男の子が、ある日思い立って、一人称を「ぼく」から「おれ」に変更したとします。この語り口の変更は彼が自主的に行なったものです。しかし、選ばれた「語り口」そのものは、少年の発明ではなく、ある社会集団がすでに集合的に採用しているものです。それを少年はまるごと借り受けることになります。
 さて、この「ぼく」から「おれ」への人称の変化はそこにとどまらず、たちまち彼のことばづかいの全域に影響を及ぼします。発生も語彙もイントネーションも字体も、みな変化します。それどころか、髪型、服装、嗜好品から生活習慣、身体運用にいたるまで、少年は「おれ」という一人称に相応しいものに統制する無形の圧力を感じずにはいられません。(「熊ちゃんのパジャマ」のようなものを着て寝るわけにはゆかなくなるのです。)

『寝ながら学べる構造主義』内田樹

 ある集団、例えば、今、サブウェイにいるわたしの近くに座った女子高生2人組の言葉遣いはとてもよく似ています。彼女たちはその集団における文化に染まってしまっているのであり、きっとそのことに無自覚でしょう。そして、染まった文化の中の価値観において判断し、行動します。「サブウェイの飲み物、セルフじゃね?」「じゃあ、ジュース入れてきてもバレないよね〜」という具合に。(たぶん、実際にはジュースを入れてきてはない)
 これは、ギャルとか、オタクとかのラベルで語られる集団にも言えることですし、もっと言えばわたしたち全員が何かの言葉/言葉遣いにとらわれています。自由になった方がいいとか、そういうものではありません。

 ただ、その言葉を使うことによって、その振る舞いによって、そちらに寄っていくものなのだよ、ということは知っておいた方がいいと思っています。怒りの言動、雑な文章、乏しい語彙、などなど。それはもう、徐々に徐々に忍び込んできて、自分を怒りに、雑に、乏しくしていきます。個人的な好みの問題ですけども、わたしは、その状態を豊かで幸せであるとは思いません。繰り返しますが、穏やかなわたしがあって、穏やかな言動が出るのではありません。穏やかな言動があるから、わたしが穏やかなのです。順序を間違えてはいけませんし、だいたいの因果は同時に起こるものだったりもします。




 って、そんなことは『 マイ・フェア・レディ 』とかでも描かれてたことでしたね。ちなみに、調べてみたら映画版にはない、その後のエピソードがあるそうです。

 レディと花売り娘との差は、どう振る舞うかにあるのではありません。どう扱われるかにあるのです。私は、貴方にとってずっと花売り娘でした。なぜなら、貴方は私をずっと花売り娘として扱ってきたからです。

 なんという、至言。




m(_ _)m