meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

わたしの好きな論理展開

 「kimuraさんはロジカルですね」と言われることがありますが、わたし自身は自分をロジカルであるとは思っていません。ロジカルに見えるような気がするだけで、たぶん、それは理系っぽい見た目をしているからです。いちおう、念のため言っておきますと、わたしは文学部出身です。文系だからロジカルじゃない、って言いたいわけじゃないけども、勘違いしてる人もいるかと思いまして。

 巷ではロジカルシンキングって言葉が幅をきかせているようですが、では、ロジカルってなんだ?と問われて、きっちりはっきりロジカルに答えられる人は少ないのではないかと思います。ロジカル、論理的、ってことを証明するのは、証明の証明なのであって、つきつめていくと「1+1=2」を証明するぐらいにはややこしい話になってしまうのです。なので、ロジカルロジカルと唱えているビジネスマンチックなビジネスマンに意地悪するときには「そのロジカルってどういうことなんですか?」と聞いてみてください。答えに窮するか、具体例に引きつけられて煙に巻かれるか、まぁ、期待しているような答えは返ってこないでしょう。
 つまり、(わたしが理解するところによると)ロジカルという思考方法は、あるひとつのパラダイムでしかないのです。今の時代/文化における支配的な考え方であって「あなたも知ってる、わたしも知ってる。そーゆう前提だよね」ってことがベースになっています。具体的に言うならば、「コーヒーに砂糖を入れると甘くなる」ってことに対して、「コーヒーに砂糖を入れる」という行動から「甘くなる」という結果を導いていると考える。この因果関係は何に支えられているかというと、みんながしてきたであろう経験です。経験であるからには、それが永遠持続、普遍に再現可能なものかどうかは論証されていないってことになってしまって、はてさて、その因果、そのロジックは本当に正しいのかどうかはわかりません。味覚に障害があれば、コーヒーに砂糖入れようがなにしようが味は変わんないってこともあり得ます。
 この例をどういう風にみるかは、人によります。ただ、ロジカルに考えていたから正しいわけではないし、そもそも軽々とロジカルって言葉を振りまわしているけども、実はそれってあやふや曖昧もこもことした前提によって立っているだけのことが多い。そのことを自覚しているかどうか、そこが大きな問題なのです。いくら事実から出発しても、原因と結果を結びつけるやり方が違うなら、結論は変わってきます。まぁ、その違いも含めて論証していける力ってのがロジカルなのかもしれませんけども。

 実はロジカルってのはあやふやで怪しいもんだから、あんまり騙されちゃダメよ的な話をしておいて、なんですが、じゃあ、わたしはどんな論理展開を好むかって話をしたいと思います。ここからが今日の記事のポイントです。
 基本的な話で恐縮ですけど、論理の基礎は「A⇒B」です。たぶん。AならばBと読みます。「冬(A)だから(⇒)寒い(B)」です。さっき散々書いたようにAとBが事実でも「⇒」がパラダイムだったり、常識だったりに縛られる限り、ロジカルというのは同じパラダイムにいる人の範囲でしか、はっきりする/明快にわかるものではありません。アメリカの人に「正月だから雑煮を食べる」って言ったって通じません。
 では、どういうふうに論理を組み立てるか。ここで重要になるのはそのロジックの目的です。個人的には人に伝えることが多いので、相手に伝わりやすいことを念頭において論を展開します。
 第一段階は相手が浸かっているであろう世界を想定することです。これは相手がコーヒーに砂糖を入れると甘くなる世界に住んでいるのか、コーヒーに砂糖を入れると辛くなる世界に住んでいるのかを見極めようとするものです。外れててもいいので、とにかく想定だけはしておきます。第二段階では「実は」とか何とか言って、相手の世界ではあり得ないような因果を提示していきます。「心が弱いから怠けるのではなくて、実は、怠けるから心が弱くなるのです」みたいな感じです。ここでは、決めつけにしないことが重要。相手の土俵に敬意を払いながら、意外な道筋を持ってきて興味をひくことが肝心です。ちなみに相手が浸かっている世界の中で勝負をしてもなかなか響きません。「勉強しないから頭が悪いんだ〜」って思ってる人に「勉強しないから頭が悪いのです」と言っても何にもなりませんよね。うん、そんなことは知っている、で終わりです。ここはひとつ「頭が悪いから勉強しないのです」と言ってみるか、もうひとつジャンプして「勉強するから頭が悪くなるんです」ぐらい言い放ってみましょう。そうすることでやっとこさ「え?そうなの?」って興味を持ってもらえます。
 はい、長くなりましたが、最後の段階です。相手の浸かっている世界からしたら荒唐無稽な論を提示しておいて、そいつをもっともらしくこじつけていきます。「怠けるから心が弱くなるんです。ほら、とりあえず動いてみましょう。ね、ね、なんかスッキリしてきたでしょう、気持ちいいでしょう、そうでしょう、そんな感じですよ」的な感じです。下手に細かく論証していくと墓穴を掘ってしまうことがあるので注意してください。大切なのはもっともらしさ、です。相手が「あ、そうかも」と思えばそれでいいのです。
 最初に述べたとおり、そもそもロジカルなんて曖昧なもんなので、別にA⇒Bだろうが、B⇒Aだろうが、どうでもいいんです。わたしの理解では、ですけども。特に人に伝える場面においては、正確さは逆にフラストレーションを呼ぶことがあります。それなら、逆にすり替えてしまえばいいし、ウラをかけばいい。仏教の考え方に因果同時という、原因と結果は常に同時に生起している、って考え方があるらしいです。鶏が先でも卵が先でも、どっちでもいいし、同時にできたっていい。その言葉が含む意味深さから考えていけばいいんです。その方がおもしろい。

 当たり前のことを当たり前に繰り返すのは教科書だけでいいと、正直そう思っています。わたしたちの思考にはふんだんに矛盾が含まれているし、わたしたちを取り巻く環境には異常なほどの理不尽が潜んでいます。それに対して、教科書的な正義が何をなしましょうか。ガチガチに組まれたロジックが不測に対応できましょうか。
 知恵とは柔軟なものです。柔軟に考えるからこそ、クリエイティブさが発揮できる。そういう意味で言えば、わたしはとても固い思考の枠にはまっています。その固さがあったからこそ、学校の成績がよかったといえるかもしれません。なので、わたしが獲得し、それゆえに縛られたフレームワークを逆手にとって、発想を広げていく。言い換えれば、ロジカルを利用してアンロジカルにしてみる、ということかもしれません。
 きついことかもしれませんが、何かが普遍的であるなんて思ったときには、その目線に入らない情報が切り落とされてしまいます。だからその目線に立っているという自覚と他の目線を知ろうとする謙虚さが必要なのです。
 ロジカルだから正しいわけではないし、むしろアンロジカルだから人の興味をそそることだってある。そのことを忘れて、ロジカルシンキングが大事だなんて言ってられないのです。



(もうちょっと論理って何かについて勉強しなきゃならんですね。。。)

m(_ _)m