meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

空が狭いと感じたこと。

 都会の空は狭い。そんな言葉は聞いたことがありますが、あまり実感はありませんでした。見上げる空はいつもわりと広い。特に今日みたいな晴れた日は、気持ちのいい青空が広がっているように見えます。それでいいんじゃないか、と思っていました。
 ところが、今日、買い物に行きがてら写真でも撮ろうとパシャパシャやっていると、どうにもうまく撮れない。いい感じで夕方っぽい雰囲気だったので、空の色のグラデーションを撮りたいんだけども、いろんなモノが邪魔をしてきます。建物、電柱、電線。正直、今の家の近くは「わりと田舎の雰囲気漂う場所だ」と感じていたので、こんなにモノがあったっけ?って感じです。どうかまえてみても、やっぱりモノが入り込んできます。

 実はこれ、単純なことで、わたしのカメラの画角が変わったからなんです。フルサイズで18mmというと、カメラの世界では超広角と呼ばれます。広い広い写真をダイナミックに撮る画角です。だからやたら迫力があったりするんですね。
 今日はその広い画角で空を撮りたいなぁ、と思ってカメラを持ち出したのでした。すると、上に書いたとおり、いろんなモノが入り込んでくる。どうにかしようとして広い場所を探そうとして小学校の近くとか、駐車場とかの近くに行ってみましたが、やはり空を広く撮れませんでした。わたしが使うツールが変わっただけなんですけども、これほどまでに街の見方が変わるとは思っていませんでした。

 人はなんらかのツールを通して世界を見て、感じています。メガネをかけている人はメガネが一番わかりやすいかもしれません。当たり前ですけども、メガネが変われば見え方も変わります。これは、実はその他の感覚についても同じようなもんで、着る服や住んでいる家、座っている椅子に見ているパソコン、いろんなツールが自分と世界の間に入り込んでいます。macを使えばmacな世界が見え、windowsを使えばwindowsな世界が感じられる。そういうもんなんだろうと、わたしは思っています。
 だから、今日、わたしが感じた空の狭さはカメラのレンズのせいです。前に使っていたレンズに変えたら、また前のように気にならなくなるのかもしれません。けども、今のわたしは、最近買ったこのカメラのレンズが空の狭さを感じさせてくれたことになにかのご縁を感じてしまいます。カメラが見せてくれた世界に「そうだったんだな」と納得をさせられてしまった感じです。

 こういうのは、一にも二にもタイミングなのです。ずーっと前から、それこそ1年以上前から検討していたカメラを最近買ったこととか、メンタル的な不調を起こしたこととか、これから編集学校の花伝所に進むこととか、そんないろいろなことが必ず関連しながら巻き起こっている。いや、別に関連してなくてもいいんですけどね(笑)。
 でもでも、それらの周りにある主要な情報が起こった意味を考えていくと、おもしろいものが見えてくるときがあります。意図せず巻き込まれたことも、自分から選んで飛び込んでいったことも、並列に扱って、これらが起こっているのはなぜなんだろうと考えてみる。そうすると、そこに自分の生き筋みたいなものが立ち現れてくるときがあります。それを掴みにいってもいいし、掴まなくても別にいい。今のわたしで言えば、掴みにいくとしんどそうなので、ご縁の気配を感じながらじっと待っている。そんな状態なのかもしれません。もともと狩猟民族的雰囲気のない奴ですからね。わたしは。

 好む好まざるに関わらず、状況も自分も変わっていきます。特に春は別れや出会いやと変化の激しい時期でもあります。どこかで「ここでこうきたか!」というご縁があるのかもしれないしないのかもしれません。縁によって起こると書いて、縁起です。縁起ってのは、かついでないと何か起こってくれそうにない気がします。なので、わたしはあれやこれやともじもじ考えながら、今の自分の感覚を書きとめておくのでした。

 お遍路でも歩きたい気分(笑)。


m(_ _)m