meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

編集学校、師範代にすすみます。


【 編集工学研究所にて 】

 花伝所を終えました。編集学校は入門コースの「守」にはじまり、その後、応用コースの「破」と、師範代養成コースの「花伝所」を終えれば、師範代へと進むことができます。師範代はいわゆるコーチみたいなもの。入門コース「守」で自分の教室を持ち、そこに入ってきた学衆(生徒)さんの水先案内人となって、学びをナビゲートする役割です。
 どうやら、今のところ、いちおう、ぼくは師範代になります。師範代はほぼほぼボランティアなのに、めっさ忙しいということなので、いや、まぁ、無職なのに何やってんだよ〜、ってな声が聞こえてきそうですけれども、こればっかりは巡りあわせというか、なんというか。うん、やんなよ〜。そうですね、やりますぅ。という軽率極まりない見通しの甘さで師範代にエントリーしてしまいました。でけるかどうか、どきどきでございます。(;´Д`)

 さてさて。じゃあなんでまた、ぼくはこんなにもの時間と労力と金力をかけて「編集学校」なるものに向かっているのか。わりと自分自身、謎なままだし、謎なままにしておきたい気持ちもあるのですが、ここいらで少し、決意表明的に整理しておきたいと思います。かなりわかりにくくなる気もするので、ここから先が気になる人は覚悟してお読みください。

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 去年、エンドゴールゼミで発表したときに「関係を編集する、その切り口として支援をしています」という自己紹介をしました。紹介はこう続きます。わたしは「情報を揺さぶる表現者」であり、わたしは「構造を探求する研究者」でもあるし、わたしは「場を意味づけするファシリテーター」です、と。これらは、全て何かと何かのアイダにあるものを引っ張りだしたり、色づけたり、観察したりするという意味を持っています。普段は支援をしてるんだけども、実際には編集をしてるんだよ、ってことです。ま、編集って言葉を使っちゃうと、なんでも編集になっちゃうんですけどもね。。。
 で、その編集には「編集方針」が必要になってきます。方針がないとどこに向かってるやらわからなくなっちゃう。軸になる、方向をもたせてやらなくてはなりません。ぼくの場合はここが「学び」であったり、「自ら気付く」だったり、「弱さ」とか「研究」とか、「社会」や「芸術」なんてものだったりするんです。(支援なんかしなくても)人が自分で気付いて、学んだり、行動をしていったらええやんか。弱い人間がそれでも謙虚に向かっていく、それが美しくて愛おしいもんなんちゃうのんか〜、という考え方がぼくのベースになっているようです。
 ぼくはそんな方向に関係を編集していきたいと思っている。俗っぽく言えば、人事・教育分野、もしくはそれらを表現・発信する広報的な位置になるのだと思います。あと、研究はしたい(笑)。

◎。。。...


 大雑把に言えば、ぼくはこういうことをあーだこーだと考えている人間です。だから、師範代という役割が、自分の道と結びついてくるような可能性を感じるのでしょう。現段階ではなんとな〜く、2つのおもしろさがあると見ています。
 1つは、教室のマネジメント、ファシリテートを通して「自ら気付き、学ぶという方向に関係を編集する」実践ができるということ。どういうふうになったら、それができたと感じられるのかはわかりません。でも、現場をもって試せるのは、すんごいありがたいことです。なかなか4ヶ月継続して人の学びに寄り添う機会はありません。これはもう、やってみるしかないでしょう。
 そして2つ目は、編集の方法をもっとたくさん得られること。「関係を編集する」とか言ってるくせに、じゃあ編集ってどうするの?という、その方法がまだまだ甘いのです。自分の方法にもっと自覚的にならなければならない。他人のモデルを見て、取り入れていかねばなりません。編集すると宣言するからには、それぐらいはやってのけたくなるもんです。
 つまりは、現場と理論、実践と研究をいっしょくたにしながら、ぐいぐいと自分に変更をかけていける立場が師範代だと思っています。どうにもホスピタリティに足らない、自分勝手な解釈のような気もしますけど、これぐらいは言ってもいいでしょう。(;・∀・)

 たぶん、師範代を通して、学びとは何なのか、どうしたら気づくのか、なぜぼくは気づかせたがるのか、そういったことのヒントを感じられるのでしょう。

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 転機だからこそ、いろいろなことが起こるのだし、転機だからこそ、いろいろなことを起こしていくのでしょう。身のまわりにある環境、自分の中にたまってきた資源、今の方向性や気持ち。それらが1回目・2回目の転職時とはだいぶと違ってきています。そんなところでも、自分の変化をひしひしと感じます。オトナにもなりましたし、ふつーの人間っぽくなってきたものです。しみじみ。

 普通は、まず「私」というものが存在していて、「私」が何かをしてやろう、などと考えるわけです。しかし、実はそんなふうに思っていては、大したことはできない。「私」から離れて、自分も相手も含んだ全体を飲み込んだ見方でものを見るということをしなければ、自分自身の最高の働きを発揮することなどできない、ということですね。
( 『生命知としての場の論理』柳生新陰流に見る共創の理 )

 さすがに少し「私」により過ぎてきた気がするので、自戒のために引用してみました。道半ばにいます。この巡りあわせには乗ってみましょう。



m(_ _)m

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