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meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

そろそろ分担する経済を疑ってもよいのでは?


【 分担してきたからこその豊かさではある 】

 暑いですね。kimuraです。セミがミンミン、ってかギャギャギャギャないてます。正直うるさかったり。都会のセミの声はなぜか不健康に聴こえてしまう。バイアスって怖いもんです。それにしてもあっつい。クーラーないと死んでしまいます。

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 さて、本気で都会を脱して(おっと、名古屋って都会だったの?ってツッコミはなしよ)、どこかの地方へ移住しようとする段階になってきました。本気と書いてマジと読む。できるかどうかはさておいて、真剣です。真剣に、このヒョロイ体で地方に移住してみようと思っています。できるかどうかはさておいて。
 そんな段階になって、ようやくまた「経済」ってのを考え始めました。気になり出したのはこの発想です。曰く、「秋田県では米の生産効率が70で、じゃがいもの生産効率が20。北海道では米の生産効率が50で、じゃがいもの生産効率が50だったとする。その状態なら、秋田では米を作るのに専念し、北海道ではじゃがいもを作るのに専念した方が全体としての生産効率はあがるじゃないか」というやつです。これ、経済学の基本的な考え方で、たしかにそうだよな〜、って説得力はあるんですけど、妙に最近ぎこちない気がしてならないのです。そんなことありませんか???

 この前提は論理的に正しいんです。だから、自動車工場は労働力の安い海外に拠点を移して、日本は技術開発に専念する。情報産業は東京に集中して、地方は野菜を育てて東京に送る。分担をするから効率があがって、産業は発展し、日本は豊かになりました。これからは世界でこれをすすめていかなくてはなりません。そうすれば、世界中は豊かになるでしょう。って、不思議なことながら、どうもそう思えないわけです。もう少しこの前提を疑ってみてもいいのかもしれません。

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 じゃあ、この前提が孕んでいるリスクって何なのでしょうか。スグに思いつくのは依存性の高さですね。分担するがゆえに、わたしはパソコンができるけど営業はできない、あなたはパソコンができないけど営業はできる、といった専門性組み合わせて生きていかなきゃ死んじゃう病に陥ってしまいます。ありがちなのは「ぼくは営業しかできないから」的な勘違いです。そんなことはないのに、専門性に固執しちゃって離れない。また、相手からもその専門性を期待されているので、そこを離れられないって側面もあります。呪縛みたいなもんです。
 東京で農業やってもなぁ。田舎でテレビ局やってもなぁ。といった発想の奥にはやっぱりこの前提、分担意識なるものがあるんじゃないかと思っています。地方でつくって都会で売る、ってのも同じく。今の構造は依存性が高いんです。都会に対して地方はたくさんあるので、ひとつやふたつ地方が潰れても大丈夫ですが、都会がひとつ潰れるとややこしくなるでしょうね。東京がなくなったらお金はまわらなくなるんじゃないだろうか。詳しくはわかんないけどさ。( ´_ゝ`)


 ほんでもって、もうひとつのリスクは見えにくいんですけども、これはもうアルビン・トフラーの『第三の波』で指摘されていたことでもあります。

 世界的に統合された市場の必要性をもっとも明瞭に主張したのはデービッド・リカードで、彼は分業は工場のなかだけでなく国際的にも行われるべきだとの意見だった。英国が繊維産業に、ポルトガルがワイン醸造に専念すれば、両国とも豊かになる、というのが彼の信念である。国ごとにもっとも得意なことをやればよい。国際分業は各国を専門化し、すべてを豊かにする、という論法であった。
 リカードの理想は学説になり、今日なお有力だが、その隠れた意味に気付いている人は少ない。なぜなら、どんな経済の中でも分業は統合への強い意志を生み、従って統合役エリートをつくるに違いないからである。このエリートとは少数の産業主義国家であり、それが現実的な目的のため順に興っては世界を支配してきたのが今日までの世界の歴史である。
( 『第三の波』 アルビン・トフラー )

 つまりは分担をすると制御・調整役が必要になるということです。そして調整役がエリートとなって、権力をもってしまう。支配してしまう、ということが続いているわけです。変な言い方ですが、分担をすればするほど一極集中してしまいます。そしてそれは、必ずしもサステイナブルなあり方ではないんでしょう。

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 最近ちらほら聞こえてくる『里山資本主義』ってのはこういう分担へのアンチテーゼなのだと考えています。ブロック経済だというような批判も聞こえてきそうですが、身を守る、身構えるメンタリティではないでしょう。つくれるものは自分でつくる。その上で、余ったものは売るし、足りないものは買う。独立する!って過激な思想でもなくて、独立性を高めることなんじゃないでしょうか。
 そして、それでもやっぱり「餅は餅屋」には一定の理があります。そこは否定できません。わたしが家つくったら、、、、、何年かかるだろう?(;・∀・) 最後はバランスの問題です。今の経済構造から「半歩出る」ぐらいの心持ちが、わたしの性には合ってるのかもしれません。

 半分外へ。いいですね。中途半端で。



m(_ _)m

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