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meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

おもに則天についてぐるぐると考えたことなど。

 岡山に来ています。またもや携帯の充電器を忘れてしまいまして、ちょっとしたスマホ断食状態です。(;・∀・) まぁ、しゃーないしゃーないですな。岡山市に来るのはこれが人生2度目ぐらいでして、こんなに都会だったかな、と思ってしまいます。意外に大都会。さすが山陽といったところでしょうか。電車で少し離れると、結構な田舎っぽさがあるのはいい感じです。
 昨日は人生で初めての「普通の転職活動経路での面接」を受けてまいりました。エージェントさんの紹介のままに学習塾っぽいところへ。そこでも地域だの社会だのなんだのと、よくわからない話をとりとめもなくしてみたら、なぜか大いにウケました。ドン小西みたいな方だったけど、きっとやさしく対応していただいたんでしょう。それにしても、よくあの職務経歴書で通ったもんだ。思いっきり精神的不調で退職って書いてあるんで(笑)。

 こっちから見た印象/相性もあるんで、これから選考が進むかどうかは別の話ながら、いい経験をさせてもらっています。きっとご縁はあるべきところへ導いてくれるんでしょう。ありがたや、ありがたや。

◎。。。...


 さてさて。少し更新の間が空いているうちに編集学校の教室名をいただきました。松岡正剛校長直々のネーミングです。「則天シャッター」教室。則天は則天去私の則天。シャッターはシャッター通りのシャッター、ではなくて、カメラのシャッターですね。どちらもまだまだわたしが究めていかなければならぬキーワードです。命名されてから、この2つをもごもごもごもごと噛み続けております。なかなかの歯ごたえです。顎がきたわります。

 特に、自分で「則天去私」というキーワードを挙げておきながら、「則天」というのは解釈が非常に難しいものです。単純に考えれば「天に則る」だけで済むのでしょうが、いやはや、そこに留めておくのは惜しい、もったいない。
 則天去私は夏目漱石晩年の心持ちらしい。けども、その境地について深く考察した資料は、ちらっと見た限りでは見つかりませんでした。これはもう、夏目漱石研究を漁るしかない、、、のか。しんどそうなんで、あんまり考えたくありませんね。(;・∀・)
 夏目漱石といえば『わたしの個人主義』の中で語られている「自己本位」という言葉も有名です。イギリスに留学した漱石がなんだかんだと英文学に翻弄される中で、いやいや、自分の立場に戻って、日本の文学をつくらねばならぬのだと気づいていく。そんな流れの中で見出した言葉です。
 この「自己本位」を唱えていた漱石が「則天去私」へと流れていく。両者は一見すると矛盾しているようにみえますし、そうではない、矛盾しないという解釈もできます。実際にGoogle先生で「則天去私」を検索すると、自己本位と則天去私は矛盾しないという考察も出てくるので、それはそれで興味がある方はご参照あれ。
 わたしとしては、「自己本位」から「則天去私」へと至った流れの方に興味があります。そこのところに「わたし的則天」なるもののヒントがあるのではないかなぁ、などと勘ぐっているわけです。

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 そういえば、昔、予備校時代かな、講師の人にこんな話をきいたことがあります。曰く、福沢諭吉は進歩の人。明治文明開化のときに、西洋の考え方に突き抜けていった人だった。対して、幸田露伴は戻れと言った人で、開化以前の日本を大切にしていた。そして、夏目漱石漱石はこのまま日本が進むともともとの文化と乖離してしまって日本人は苦しむだろうと知った上で、それでも進歩していく流れは留まらないことも受け入れ、うーんどうしようと悩んだ人だった、とのこと。もうかなり前なのでウロ覚えもいいところです。あれ?予備校時代って、もしかしてもう10年以上前かも。。。(;´Д`) そんなのなので、この解釈/対比が正しいのかどうかはわかりませぬ。けども、それ以来、わたしの中の夏目漱石は、あっちゃこっちゃと悩んでいた人になっています。
 そうやって悩みながら、文章に向きあっていた人の晩年が「則天去私」なのだと考えてみると、ふむ〜、わたしもまだまだ悩まなければならぬのだと言ってみたくなりますね。なんだかシャッターを使って悩むのだよ、と、言われているような気がしなくもなくも。。。

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 こうやって追ってみると、まずは人からの影響に翻弄されること、次に影響を取り込みながら自己を確立させること、そして則天という順序も少し感じられてきます。ここで一番気になってくるのは、「天」とは何か?、というところです。これも安易に捉えるならば、天は自然となってきそうですが、そんなカンタンに済ませられるものではありません。運命とも捉えられるし、神ということもできます。
 エンデが『ものがたりの余白』という本の中で、個々人が神話を持つべきだと言っていたことを思い出します。この神話というのがまた厄介ですが、おそらくそれぞれ個々の物語であって、かつ、全体としてつながっているようなものなのかもしれません。一を通して全となるもの、もしくは、全を感じられるような一を、それこそ自己本位につくっていくこと、なのかな。そして自分がつくった天があれば、私を去ってしまうことができる。うん、かなり意味がわからなくなってきますね(笑)。

 しかし、いかにも、この「天」をつくる作業をしていく時期に、わたし自身が今、真っ只中でいるのかもしれません。いや、つくるというよりは、天につながる作業と言った方がしっくりきます。この前、友達と「そういえば、ぼくらにとっての社会って一体だれなんだろう?」などという話をしていて、たしかに、天がなければ則ろうにも則れぬのです。つまり、天なる主体が漠然とし過ぎていてイメージできず、故に迷走し続けるしかないような状況に今いるのではないかという話をしていたのでした。
 ただ、これは待っていて降りてくるものでもないので、とにかく手を出して掴んでみようとしてみなければならない。足掻いてみないと掴めなくて、でも、たぶん、その足掻きが楽しいのだから、これがまた、しようのないわたしの性質なのでしょう。なるほど、そこでシャッターですか、そうかもしれません。

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 いつにもまして、ぐっちゃぐっちゃな文章を書き散らしてしまいました。ある意味こうなることがわかっていて、書いた、という確信犯でもあります。「則天シャッター」はわたしの命題であって、これについての思考をとにもかくにも書いておかねばならぬと、そんなことも考えていたのです。

 まだまだ節目は続きます。転はまろばし。先の先、先々の先を感じようとしながら、動くいてまいります。



m(_ _)m

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