meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

「どこに投票したか?」表明できない理由とそのリスク


【 出雲の空は表情豊か。(コロコロ変わる) 】

 選挙の日ですね。みなさん、投票には行かれたのかしら。
 Facebookを眺めるとあちらこちらから選挙の話題が飛んできますね。曰く、選挙に行こう、だの、選挙になんか行っても意味ないじゃん、だの。なんだか色んな意見があるのはいいことです。争点があんまりはっきりせずで、何を基準に投票したやらわからぬのわたしも、期日前投票には行ってまいりました。
 さて、そんな選挙フリークなわたしの周りでも、ほとんど見ない種類の情報があります。「どこに投票したよ」ってやつです。これって結構不思議な話だなぁ、と思っておりましたので、今回試しにTwitterでつぶやいてみました。

ちなみに、愛知1区、社民の平山良平さんに投票してきたのです。若者おしが入ったのと、理想を語るおっちゃんには好感がもてたので。ええ、たしかな野党って位置は大切だと思っているのです。

あと、比例は維新に入れました。いろいろと話題があるところですが、一番ドラスティックに地方分権をすすめてくれそうだったので、そこに期待したのです。

にわか選挙フリークですが、まぁ、常日頃政治ウォッチしてるわけでもないので、これぐらいの浅はかさで選ばせてもらいました。政見放送ぐらいは見たかったけどなぁ。


 いずれもわたしのTwitterアカウントから引用しています。まぁ、特に考えなしにやっているので、とりあえず表明してみた、というテンションでした。正直、選挙の度に自分の無知さ加減を痛感するわたしです。今回も例に漏れず、ホームページ見てもわからぬし、ニュースも普段から聞いているわけでもないから、どーすっぺなー、といった感じでの投票でした。

 その日の夜、おかんからツッコみが入りました。Twitterなんかでどこに入れたか言うのはやめとけ、とのこと。これは意外なところに反応があったなと、少し戸惑いました。そして、その言葉を味わってみると、うん、確かに半分は納得です。でも半分は違和感のある忠告でした。

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 なぜ、日本では「どこに投票したよ」という話が禁忌になっているのでしょうか? 加えて言うと、なぜ「どこに投票しようと思っているよ」という話にもあまり触れることがないのでしょうか? 事前/事後に関わらず、意見の表明をよしとしない文化があるようなのです。

 おそらく、単純に考えれば「面倒事が起こるリスクをとらない方がいい」ということなのでしょう。「俺、自民に入れたんだー」なんて言っていると、「なんでそんな判断してんだよ。情弱め。m9(^Д^)プギャー」とか飛んできそうですね。わざわざ自分の無知を晒さなくてもよいではないかと。それはその通り、おっしゃる通りです。一応、反論するとすれば、意見ってそうやって磨かれていくものなのではないかな、などとは思っております。このブログも、もんのすごく恥ずかしく、自分の無知を晒しておりますしね。
 もうひとつ、こちらの方が厄介なのですけども、「選挙には利権が関わってくるから表明しない方がいい」という点があるでしょう。今回の選挙で言えば、地方創生、なんて言葉も出ておりました。国から降りてくるお金が絡むわけですね。となれば、「あの人、社民なんかに入れたのよ。うちの会社は自民の政策あってこそでお金もらってるのに。そんな奴は仲間に入れてあげないんだからっ」ってことにもなりかねませんね。このリスクは大きいので、多分、わたしも田舎に住んでいたならTwitterに出すことはしなかったでしょう。ムラ社会って怖いわね。念のため言っておくならば、特定の集団に利益が集中しないようにする、というのが富の再配分機能なのだろうな、とは思っています。

 ま、このように、フクザツな事情が絡まり合っているみたいです。なので、そことは関係ないんだよーって態度で「維新に入れたんだぜ−」とか言ってると釘を刺されてしまいます。考えなしな行動には気をつけましょうね。
 ただ、せっかくなので、もう少し深く考えてみましょう。なぜ意見表明が許されないのか。そこには日本的なディスカッションのあり方みたいなモノがあるように思えているのです。

●◯。。。...


 わたしは自治的な学生寮の出身ですので、そこでディスカッションに慣れました。といっても大学生のやることなので、大したことを話し合っていたわけではありません。シャワーは何時までに浴びることにしよう、だとか、そんな話を寮生総出で延々とやっていたわけです。
 意見の対立なんて日常茶飯事で、会議中に言い合いみたいになることもあったと思います。ただ、当たり前のことですが、会議中の対立をその外に持ち出さない方がいい、ということにはスグに気がつきました。一緒に生活してるのだから会議のあともちょくちょく顔を合わせるわけです。意見の対立は意見の対立。いちいちそれで仲を悪くしていては身がもちません。人間性と意見を分けて捉えることはできませんが、それでも議論の場と生活の場は違います。アイツの意見が気に喰わなかったから無視してやる、なんていうのは愚の骨頂です。それぞれの思想が認められなければ、自治なんてできたもんじゃないんです。そーゆうものだと思っていました。

 でもこれは西洋的なディスカッションのあり方だったのだということにも社会に出てから気付きました。意味のない会議、対立しない意見、シャンシャンと終わって飲みに行く。それはそれは日本的であって、その方法が確立されているのだろうとも感じています。みんな仲良く笑って、水面下では必死に調整が行われている。会議の外が重要視されるということなのだろうと、無理やり言葉にするとそんなふうに思っています。
 それが本質的な「和」を保つ方法なのかどうかはわかりませぬ。でも、そういうプレイが大切なときだってあるのです。そんなん合理的じゃないと一蹴することはできません。

 こうやって、考えてみると、今回の投票に際してわたしが「どこに投票したよ」と表明したのは西洋っぽい価値観に基づいた行動だったと言えると思います。このズレが根本にあったから、ツッコまれたのでしょう。

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 では、わたしたちはどうやって意見の磨くのでしょうか。実はここが最も大きな課題となって残ってくるのです。日本の議論、選挙の真骨頂は「水面下」や「根回し」です。ということは、見えない部分に潜れる人のみが、そこで意見をやり取りし、主張を磨いていきます。意見やメッセージは自分で表現しないことには成長しません(あ、もひとつ言うと、他人の意見を飲み込むことができないと成長しません)。つまり、水面上でメディアに踊らされるわたしたちには、意見を磨く術があまりないのです。

 今回、わたしのツイートにある友達が反応してくれました。曰く「その政党の考えは嫌いだけど、kimuraの考えもわからなくはない」というようなものでした。わたしも「考えが嫌い」という点には共感できるところがあるなと思いました。
 意見を磨くってどういうことなのかはあんまりよくわかっていないのですけれど、おそらく、こういうやりとりが大切なのだろうと思っています。状況は厳しいし、仕組みはフクザツで、扱うテーマは膨大です。正解があるわけじゃなし、それでも選択を続けていかなければなりません。そのときどきの最善は何なのかを独りで考え続けなければならない。そんな状態に、水面上の人間は追い込まれているようです。そりゃあ、意味ないじゃん、って思いますよね。


 別にインターネットに晒さなくてもいいと思います。利権とはほど遠い位置にいるのであれば、しがらみなく話せるならば、周りの人と話してみてもいいのではないか。信頼できる人が周りにいるのなら、その人と少し考えを突き合わせてみるのも一興なのではないかな。

 今回の選挙に際して、そんなことを思うのです。


m(_ _)m

対話のレッスン

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