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meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

みんな違って、みんないいんだけど、そうじゃない。

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 なあんばーあーわんにーならなくてもーいいー、って歌ってたのは国民的大スターでナンバーワンなSMAPでしたね。世界に一つだけの花がリリースされたのは2003年。10年以上経ちました。オンリーワンな時代、来ましたでしょうか?
 ちょっと意地悪な問いかけになってしまいましたね。確かに価値観は多様になったし、生き方の幅も広がったような気はします。けども、なんか違う。えええっ!?っと呆れる事件が起こることもあれば、えええええっ!?っと仕事中に呆れることもあります。多様といえど、そりゃないでしょう。そんな気持ちになることも、ちょくちょく。みんな違って、みんないいんだけど、そうじゃない。そんなツッコミを入れたくもなるのです。

 

「レールなし」はとっても厳しい。

 多様になればなるほど、レールは見えなくなって、ワインディングロードになります。こうすればいい、ああすればうまく生きていける、そんな方程式は成り立ちません。それでいいんだよ。そのままでいいんだよ。かけっこで一等賞とらなくてもいいし、稼ぐ生き方なんてもう時代遅れ。さぁ、みんながみんなの生を謳歌すればいいんだ。歌おう、踊ろう、え?輪に入りたくない?それも自由さ!って、そこまで言われることはありませんけども。(;・∀・)
 レールなき世の中、〜すべきという規範なき世の中では、みんながふわりふわり。根無し草のように漂ってしまいます。あなたの人生、あなたが決める。聞こえがいい考え方が自己責任論を巻き起こしました。ああ、責任はとりなくないし、ゆらゆらふわふわ。誰もが確固たる自分を見つけられるほど強くはなし。不安がつきまといます。
 しかし、誰も正解を教えてはくれません。責任は転嫁できない。いつの間にか他の人の責任まで甘んじて受け入れなきゃならなくなってることまである。それが今の厳しさです。責任をレールに押し付けることはできません。残念、無念。

 

根っこを求めて原理に走る。今風原理主義

 お金は使ってもいいし、貯めてもいい。人を殴る理由もあるし、優しくする悪意もある。「悪には悪の正義があるんだ!」ってのはバイキンマンの名言です。じゃあ、どっちにいけばいいのだろうか。迷った末に、すがるは原理です。多様化時代には原理主義が強まります。
 ここでいう原理は「そもそも」のことです。例えば、お菓子ばっかり食べてる人がいるとします。その人に向かって「ちゃんとごはんも食べなさい」と言っても、おそらく「栄養は取れてるから大丈夫」という答えが返ってくるだけでしょう。その後の議論は平行線です。いっつ、みすこみゅにけーしょん。
 この2人に共通点を見いだすためには「そもそもなんで食べるんだっけ?」というところまで戻らなくてはなりません。「生きるために食べましょう」ぐらいまで遡れば、2人ともが「うん、そうだね」と納得するでしょうか。そして、その「生きるための食べる」の方法が2人で違うんだねと、認め合うことができるかもしれません。(できない気がしますが)

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 これがわたしの言っている「原理」です。もう反論の余地のないくらいまで削りだされた主張。人は生きるべきだ、とか、平和な世の中がいい、などが当てはまります。よっぽどじゃないと、これには反論ができない。今風原理主義です。

 今風原理主義はわりと危険だったりもします。反論されないからです。ほぼ正しいから、誰が、どんだけ大きく声をあげても、賛同しか返ってきません。傷つかない、リスクのない言説です。気持ちがいい。
 もともと漂っていたところで掴んだ藁が今風原理主義ですから、それはもう突っ走ってしまいます。信仰に近いパワーが湧いてくる。大きな雪崩です。震災復興もそうだったし、戦争法案反対にも近い気配を感じていました。反論するやつぁ、人でなしだぁ、ってね。
 原理の主張に意味がないとは言いません。ただ、危険ではある。快感に酔うのはよくない。芯がないと流されてしまいます。すがっちゃダメです。巧く使うのがいいです。

 

原理でもなく、「みんないい」でもなく。

 考えてみたら当たり前な話、「みんないい」ってなんか違うと思っている時点で、「いい」と「よくない」の判断がなされています。素直になりましょう。原理まで遡ることもない。よくないと思ったことは、やっぱりよくないのだと思うのです。お菓子ばっかりで生きてちゃいけません。

 「教育」テーマでこの問題にチャレンジしてるなと感じた本を最近読みました。やっぱりいい先生と悪い先生っているよね、という個々人の実感を大事にしていこう。そんなことも書いてありました。たしか。(;´∀`)

どのような教育が「よい」教育か (講談社選書メチエ)

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 教育行政どうこうやってるわけじゃないので、どっちが「いい」なのかをぐいっと束ねる必要は感じません。そんでも、やっぱりわたしたちはそのままでいられるわけもなくて、みんながみんないいわけでもありません。どんなにいいことやってても、経済的に、政治的に、恋愛的に、社会人力的に、facebook的に、評価が下される。その関係の中で、わたしたちは生きていくし、生きていくしかないのです。

 だったら、いいときはイイネ!と言い、ダメなときはダメ、、、とは言わなくても、まぁ、微妙な顔してちょっとまずい雰囲気出した方がいいでしょう。見えない評価軸を背後に感じて、わかりにくい研鑽をし続ける。それが運命と書いて「さだめ」と読む何かなのかもしれません。

 どれでもいいわけじゃない。評価の軸が各個人にそれぞれ一本ずつ備わっているわけでもない。現代では、市場の中で曖昧にできあがる「いい」の方向性と照らし合わせて模索してかなきゃいけないようです。もうそろそろ、「みんな違ってみんないい」の目眩ましにひっかかってるわけにもいかなくなってるんじゃないかな、などと考えているのでした。

 


m(_ _)m

 

 

 

寝ながら学べる構造主義 (文春新書)

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