meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

松江に移住してそろそろ半年だし、Iターン的な感覚とかを書いておく。

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 気がついたら、8月が目の前にあった。松江もあっつくなったものである。ここに来たのは2月。昼ごはんを買いに行く道中、おお、そういえばそろそろ半年なのだなと気付いた。
 長いようで短い期間のうちに、ぼくの感覚は少しずつ変わってきているな。そんなことを思った。

●◯。。。...

 松江に来て本当によかったな、と今は思っている。もちろん、数ある選択肢の中でひとつを選んだのであって、もっとよい選択肢があったのかもなどと考えれば話は別だ。まぁ、ぼくの頭はそんな思考をするようになっていないので、これがよかったのだと短絡的に思うことができる。得な頭をしているのである。
 それにしても、松江は幸せなのだ。何だったかの住みよさランキングで1位になるのも頷ける。落ち着いていて、便利で、環境がよくて、歴史都市の渋さも、観光都市の華やかさもある。どこか満たされているような感覚になる。地方都市的な「寂れ」はそんなに見当たらない。名古屋のように大きな道路も、賑やかな繁華街もないけど、不便を感じるほどの田舎でもない。24時間営業のスーパーも近くにある。それでいて環境もよい。
 名古屋で最底辺の生活レベルになっていたからなのか、松江に来てからの豊かさには大いに驚いた。毎日ごはんも食べられるし、湯船にお湯をはってお風呂に入る。当たり前のことが、当たり前でなくなっていたようで、それがまた時が経つにつれて当たり前になってきている。でも、2度目の当たり前は、ぼくにとって貴重でありがたい。
 毎日お風呂を洗うこと、掃除機をかけること、布団を干すこと、そういった生活に付随する作業に最初は辟易もしていた。どんだけおかしな生活に身を投じていたのかと、ツッコみたくもなる。改めて、それらの作業、つまり家事の大切さを見に染みて感じる。そして、未だに相方が出かけて1人になると、オーバーフローして家が荒れてしまう。(;・∀・)

●◯。。。...

 最近になって、「ここは松江だ」と意識しなくなった自分に気付いた。半年間という短い期間に、だいぶとここがホームになってきたのかもしれない。ふと、名古屋にいるのと同じような身体感覚になっていて、そういうときにはちょいと東西南北がつかめなくなる。再度、日本地図を頭に描いて、ああ、山陰にいるのだったと思い直す。北には日本海がある。太平洋側じゃない。
 ずーっと海が南側にある生活をしてきたからだろうか、海がある方を南と錯覚することがあって、そのせいで最初はよく方角を間違えた。「北口」がどちらにあるか。これはまだ注意していないと間違えてしまう。ちなみに、「大山」も「蒜山」も読めるようになった。「蒜山」を「にらやま」と読んでいたのがなつかしい。文字をなんとなくの感覚で読んでしまう、恥ずかしいクセが出てしまった結果の読み間違いである。

 こうやって間違えたときに、おお、移住したのだった、などと感じることもあったが、さすがにその類の新鮮味は薄れてきている。浮いたものが沈んで落ち着くような感覚。土地への同化であったり、自分なりの安定を感じている。新鮮味がないからといって、おもしろ味がなくなったようには全く思えないのも、わりと不思議なことだな、と思う。まだまだ開拓したい場所は多い。

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【松江はわりと街。ヒートアイランドもありそう】

 移住した当初は、空気の澄んだ感じや水のさらさらした肌触りが嬉しかった。毎日、うん、いいな、と確かめるような、そんなひと呼吸をしていたように思う。そんなことをしてしまうほど、Iターンや移住を意識していたのだろう。そんな、環境とぼくとの緊張感は、だいぶとなくなった。
 半年が経って、経済的な問題とか仕事的なあれやこれやはあるにせよ、身体はひと段落しつつある気がする。経緯はどうあれ、自分の「選択」であったものが、ああ、こうなるんだったんだろうという「必然」になっていくんだろう。そういう雰囲気を、少しだけ、感じています。

 

m(_ _)m

 

 

いま、地方で生きるということ

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